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第三回:供え物と手向け物

祭祀への道 第3回 供え物と手向け物(たむけもの)です。


音声はこちらから

おほあした やまのはのぼる あさひこを すめらとあふぎ なみだあふるゝ
(元朝 山の端昇る 朝日子を 皇と仰ぎ 涙溢るゝ)

人は、(霊主体従)です。霊(たましひ)が主たるもの(本質)で、体(肉体)が従たるもの(現象)です。肉体が滅んでも霊(たましひ)は不滅です。「死」といふ現象は肉体が滅ぶことであって、霊(たましひ)は、祖霊の末席に加わり、そこを経て総命(すめらみこと)に帰って生き続けますので滅びません。体は死んでも、霊(たましい)は生き続けるのです。

たましひ(たましい)の「たま」とは、「玉」であり、「偶」であり、「奇」です。完全なもの、美しいもの、まれなもの、貴いものです。だから「偶し霊(偶然なるれい)」です。「たま」は、「霊」をも意味しますから、「たましひ」とは、「たま」と「ひ」の重ね言葉でもあります。霊(ひ)とは、「日」の化身であり、永遠なものです。ですから、我が国は「日の本」であり、日の国、霊の国なのです。

 また、「人(ひと)」とは、「霊止(ひと)」のことです。一から十までを大和言葉では「ひふみよいむなやこと」と言ひますが、この初め(ひ)から終はり(と)までのすべての数霊の性質を持って生まれたのが人(ひと)です。「たましひ」は永遠ですが、そのたましひが、仮の住まいとして肉体に止まつたものが「霊止 ひと」というのです。

占領仮名遣いだと、「たましい」と表記されて、「たましひ」の言霊の響きが隠されてしまひます。ですから、これだけでも「たましひ」と言ってみてください。なほ、この言霊、数霊、音霊のことについては次回に説明します。

さて、祭祀は実践ですから日々の習慣として身につけることが大切です。一日も欠かさずに無理をせずに続けられることから始めましょう。するときには、祭礼儀式を極めて丁寧にはするが、それを気まぐれに時々しかしないというのでは意味がありません。頭をさげ声を出して挨拶をするだけであっても、それを毎日欠かさずにすることの方がよいのです。ある数学者が今から四十数年前に言っていた言葉ですが、「継続は力なり」という名言があります。これは、継続することによって力が生まれるという意味だけではなく、力があるものは継続するのだという意味でもあります。人やその他の動物には、自律神経があって意識しなくても心臓が動いています。これは命と本能の働きです。決して理性の働きによって自覚的な意思によって心臓が動いているのではありません。命と本能には、間断なく継続する「力」があるのです。このことからしても、とぎれとぎれにしか意識しえない理性の働きというのは限界のある危いものであることが判ります。理性を絶対視することなと決してできないのです。

祭祀の本質も心臓の働きと似ています。祭祀は実践であり習慣であり、本能から生まれてくるものなのです。本能や自律神経の働きのように、反射神経的に自然と行えるような無意識の習慣のところまで祭祀の実践が到達する必要があるのです。朝起きて両親や家族と顔を会わすと、多くの人は不随意的というか、反射的に挨拶しているでしょう。朝起きて顔を会わせれば、礼儀としてご挨拶しなければならないとの道徳規範を一々意識して、自覚的、随意的に理性的な判断をしてから初めて挨拶する人はいないでしょう。それが「禮(礼)」の本質であり、祭祀の基礎です。すべては人の本能に根差しているのです。

ですから、御先祖の肉体が見えないからといって、祖霊にご挨拶しないのは可笑しいことです。恥ずかしいことです。お父さんやお母さん、お祖父さんやお祖母さんが亡くなるまでは毎日挨拶していたのに、亡くなった途端に全く挨拶しなくなるのは唯物論に毒されているからです。唯物論が科学的にも完全に誤っていることについては機会を改めてお話しますが、こんな豹変する人は勿論のこと、亡くなった人に何か特別の日だけに丁寧に挨拶し、それ以外は知らん顔をするような態度をとるムラ気の人は、誰も一人前の子孫とは認めてもらえません。そのような者は、最も肝心な躾けが身についていない哀れな子孫です。その哀れな子孫が自分の子供に対して何かしら偉そうに礼儀作法などの躾するのは噴飯ものです。御祖先様に日々感謝することを全く怠りながら、毎日や毎週、毎月に神社やお寺や教会に行って何かを願ったところで、その願いが叶えられるものではありません。そんな祖先無視の者の身勝手な願いを叶える神仏が居るとしたら、それは偽物です。祖霊に感謝もせず、感謝の気持ちを示すお供えもせず、これまでの人々が理性の働きで想像的に作りあげた様々な神仏に救いを願ったりお供えしたりするのは、人の道に反するもので物事の順序が狂っています。

人の善悪は、宗教的に定まるものではありません。命と本能に忠実な方向が善であり、それに背くものが悪なのです。宗教的や道徳的なもので善悪は決まりません。本能に適合する方向、つまり「本能適合性」がある方向が善であり、それに反するのが悪であるという単純なことなのです。ですから、御先祖様に感謝のための祭祀もせず、お供えもしないというのは「悪行」なのです。

そもそも、御先祖様の祭祀のために行うお供えというのは、感謝の表現の一つです。何かをお願いするためのものではありません。日々の祭祀に、いつもお供えできるのは簡素なものでもやむを得ませんが、珍しいものや初ものなどが手に入ったときは、それもお供えをします。

そのお供えの中で、手向け物が最も重要なものです。手向けとは、家族の手で丹誠込めて作ったものを、その両手に抱いて御先祖様に献上することです。手向け物とは、あくまでも自分の家族が作ったものです。どんな不出来なものであっても、丹誠込めた子孫の営みを慈しまれるのが祖霊です。人様には恥ずかしくて差し上げられない不出来なものでも、御先祖様なら喜んで受け止めていただけるはずです。

私の家のことについて述べますと、私の亡父の命日は、太陽暦では十一月一日です。亡父の好物は果物ではイチジクでした。随分昔に、妻は、家でイチジクを作ると言ってその苗を買ってきて育ててくれました。やうやくイチジクの実ができたのですが、季節が異なりますから命日まで持ちません。そこで、夫婦で相談し、冷凍保存して命日に手向けるというのも何だかおぞましいので、今では採れた初物を手向けるようにしています。

このように、自分の家族で作った物がいつも豊富にあるとは限りません。それが少なくて貧相であることから、自分の家族以外の人が作った物も添えて、すべてのお供へ物を自分の家族で作つたもだけで満たすことができないことをお詫びしてお供えするのです。手向け物やお供え物は、食べ物だけではありません。家族が作つた歌や書や絵、工芸品などの品物などもそうです。ところが、いつも祭祀を心がけている人でさえ、現在では、家族では全く作らずに、人が作つたものや買つてきたもので豪華なお供えをすれば足りるとする唯物的観念に毒された人が多くなりました。

古代は、自給自足社会でしたから、お供え物のすべては手向け物でした。そして、ときには、家族以外の人が作った物をいただいたとき、その中には、珍しく有用で貴重な物として重宝される物がありましたから、それをもお供え物とすることがありました。ところが、今では家族自体の自給率が低下し、お供え物に対する価値観が逆転してきています。家族が自給自作していない物が如何に豪華な物であつても、それだけしかお供えできないのは、家族の自給率のなさを晒すようなものです。

祖霊が喜ばれるのは、子孫の「力」です。自らの家族が必要とするものを自らの家族が作る能力を高めることが家族の真の力であり、このことは貨幣経済の物差しで計ることはできません。祭祀を受け継ぐ子孫の力とは、自立再生の家族となつて「まほらまと」を実現することにあり、それによって皇運を扶翼することを祖霊は望まれるのです。

たとえば、食べ物をお供えする場合でも、買ってきた出来合いのものをお供えするよりは、少しでも自分の家族で素材から作ったものにすることです。できれば、その素材も買ってきたものよりも自分で作ったものにすることです。そのことを常日頃から心がけることによつて、各家庭の自給率が高まり、ひいては国家の自給率が高まつて、一歩づつ「まほらまと」に近づく救国の道を進むことになります。

祭祀は救国の実践であり、救国の力である所以がここにあります。


平成二十二年一月七日(昭和天皇祭)記す 南出喜久治

原文(正統仮名遣い版)はこちら
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