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千座の置き戸 -第17回  奴隷-2/2

12月15日に塾HPに掲載していました
 千座(ちくら)の置き戸 17回目 『奴隷』 
原文は こちら
ブログ用に仮名遣いを変更したり、一部読み仮名をつけたものを掲載しております。



連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第十七回 奴隷

                    南出喜久治(平成26年12月15日記す)

ゐなかにて なりはひするは やそがみの すめばみやこの をしへにふしき
(田舎(稲処)にて農業するは八十神の住めば都(皇ば宮処)の教へに伏しき)

 ところが、現代のサラリーマンの場合は、ローマ帝国での奴隷よりも、もう少し厳しい現実があります。コストを顧みず道楽で行ってきた趣味は、事業化するための採算性には程遠いものであって、あくまでも趣味の域を出ず、これで自営者として身を立てることは不可能に近いのです。
 また、専門技能や専門資格を得て自営者になること、いわゆる「脱サラ」を成功させることも至難の業です。つまり、ローマ帝国での奴隷が、同じようにして解放奴隷になったり、市民に昇格して自営者になりうる場合と比較すれば、サラリーマンが脱サラを成功させるには、余りにも狭き門なのです。

 さうすると、大抵の人は「脱サラ」を諦めて、サラリーマンとして一生を終えることになります。さうすると、定年やその他の理由で退職離職するまでの間、「サラリーマンは気楽な稼業」と自分に言い聞かせ、大きく脱皮できない欲求不満の捌け口として、個人主義に走って社会性を見失います。そして、文化伝統や祭祀などを価値のないものと否定したり、それを実践することを愚かなことであるかの如く揶揄して自己満足するようになってしまいます。

 これは、心理学でいうところの「防衛機制」(適応機制)という心の働きです。その結果、世の中を斜めに見て、周りを揶揄することを趣味化させ、確実に「ニヒリズム」と「唯物論」に至ります。これこそが現代社会を蝕んでいる病です。

 伝統や祭祀を守ることは、個人主義や唯物論から脱却し、いつか必ず自営者になってみせるという勇気と志を常に高めるためです。「あすなろ」の世界であり、真の奴隷解放運動です。だから、このことからしても、その運動の基軸となる祭祀を疎かにしてはなりません。これが推古天皇の御詔勅の意味するところです。

 推古天皇の御詔勅(日本書紀巻第廿二)とは、推古天皇15年2月(皇紀1267年)「戊子、詔曰、朕聞之、曩者我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祇。周祠山川、幽通乾坤。是以、陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祀神祇、豈有怠乎。故群臣共爲竭心、宜拜神祇。甲午、皇太子及大臣、率百寮以祭拜神祇。(つちのえねのひ(九日)に、みことのりしてのたまわく、「われきく、むかし、わがみおやのすめらみことたち、よををさめたまうこと、あめにせかがまりつちにぬきあしにふみて、あつくあまつかみくにつかみをいやびたまう。あまねくやまかわをまつり、はるかにあめつちにかよわす。ここをもちて、ふゆなつひらけあまないて、なしいづることともにととのおる。いまわがよにあたりて、あまつかみくにつかみをいわいまつること、あにおこたることあらんや。かれ、まへつきみたち、ともにためにこころをつくして、あまつかみくにつかみをいやびまつるべし」とのたまふ。きのえうまのひ(十五日)に、ひつぎのみことおおおみと、つかさつかさをいて、あまつかみくにつかみをいわいいやぶ。)のことです。

 ここで最も重要な部分は、「祭祀神祇、豈有怠乎」(あまつかみくにつかみをいわいまつること、あにおこたることあらんや)です。

 これは、

かみがみの いわいまつりを おこたるは みことのりにも そむくことなり
(神々の祭祀を怠るは詔勅にも背くことなり)

と言うことであり、祭祀を日々実践することこそが、人生における自縛的な奴隷意識から自己を解放できる唯一の道であることを意味しているのです。
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