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千座の置き戸 -第17回  奴隷-1/2

12月15日に塾HPに掲載していました
 千座(ちくら)の置き戸 17回目 『奴隷』 
原文は こちら
ブログ用に仮名遣いを変更したり、一部読み仮名をつけたものを掲載しております。



連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第十七回 奴隷

                    南出喜久治(平成26年12月15日記す)

ゐなかにて なりはひするは やそがみの すめばみやこの をしへにふしき
(田舎(稲処)にて農業するは八十神の住めば都(皇ば宮処)の教へに伏しき)

 奴隷と聞くと、アメリカの奴隷制のような過酷な姿と固定的な身分制度を連想することが多いですが、ローマ帝国での奴隷とアメリカの奴隷とは大きく異なるのです。

 ローマ帝国の奴隷は、一般には「市民」に雇用された家内労働者であり、「奴隷」は努力すれば「解放奴隷」になったり、そして「市民」になることができるほどローマ帝国には身分的な流動性がありました。

 つまり、現代に置き換えれば、民間企業や自営業者に勤める「サラリーマン」(給料生活者)がローマ帝国の奴隷に近いのです。サラリーマンとは、和製英語であり、侮蔑的な意味もあり、さらに揶揄して「社蓄」(会社の家畜)とか「会社の犬」と侮蔑したり、あるいは自嘲したりすることがあります。

 「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・・」という歌は、高度経済成長期に大量のサラリーマンを輩出させて、侮蔑や自嘲からの解放を進め、分業体制を大きく推進させました。

 しかし、そんな風潮の中で、自営業者たちからサラリーマンが、「サラリーマン」と面と向かって呼ばれると、自分がサラリーマンであることは事実なのに、この言葉に対して極度に憤慨したり、自嘲的にこれを喜んで受け入れたりする人が居るなど様々でしたが、現在では、こんなことを侮蔑的にいう人もなければ、それを聞いて憤慨する人も殆ど居なくなりました。

 ところが、言葉というのは不思議なものです。特に、「社蓄」という言葉は奴隷よりも著しく侮蔑的なのに、社蓄という言葉は受け入れても、奴隷と呼ばれることに極度の嫌悪感を持つ人が居るのは、奴隷という言葉に過酷なイメージを刷り込まれているためだと思ひます。

 しかし、言葉の感覚とは別に、ローマ帝国の奴隷が現代ではサラリーマンに似たものであることは、歴史的な比較認識からして常識です。サラリーマンの身分がローマ帝国の奴隷に等しいと聞くと、これに憤慨する人や、逆に、これについて何とも思わなくなった人が居ますが、これらの人々の心の中に現代の病巣を見ることができるのです。

 そもそも、私が実現目標とする自立再生社会には、サラリーマンは居ません。すべてが自営業者です。自給自足生活というのは、見方を変えれば自営業者の生活ということです。自給自足生活ないしは自営業者の生活に共通するのは経済的自立であって、特定の企業や業者に従属、隷属する生活をしない自営者のことです。自営者は、自営のために必要最小限度必要なことと、そうでないものとが現実的に区別できます。
 自己の労働と収入との直接的な対応関係を実感できるからです。ところが、現在の一般のサラリーマンには、それがありません。自己の日々の労働と月極の給料との間に直接の対応関係がないからです。会計学的にいえば、個別損益計算と期間損益計算との相違に似ています。

 そうすると、一般のサラリーマンは、これからどうして行くのでしょうか。嫌なことでも、雇主から命じられたことだけをすれば給料が入ってくるので、自己の行う日々の労働と、給料日にもらう給料との対応関係がないために、無意識のうちに労働意欲や充実感が低下します。そのために、その欲求不満を別の方法で満たし、給料の獲得のために切り売りする労働とは別の労働によって目に見える成果を求めて充実感を得たいために、自営者も驚くような特殊な趣味に走ったり、専門技術や資格の習得を目指すことになります。

 ローマ帝国での奴隷は、まさにそうであって、風呂や娯楽や酒に極度に耽ってみたり、余暇で専門技能を習得して専門家や学者になって、解放奴隷、そして市民への道を歩むことがありました。

 
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