スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

千座の置き戸 第十二回 元号と皇紀と世界暦 -5/5

毎月 1日と15日に 塾HPに掲載しております 
千座の置き戸 第十二回 元号と皇紀と世界暦

こちらのブログには私たちが慣れた仮名遣いに直し、一部ふりがなをつけたものを掲載いたします。

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第十二回 元号と皇紀と世界暦

                    南出喜久治(平成26年10月1日記す)


こよみする ひしりのつとめ はたされて たみやすかれと いのりたまひき
(暦(日読み)する日知り(聖)の務め果たされて民安かれと祈り給ひき)
こよみとは ひしりのすめが さだむもの たみがみだりに かふるべからず
(暦(日読み)とは日知りの皇統が定むもの民が妄りに変ふるべからず)

いわゆる西暦というのは、「AD」と言ひますが、これは、ラテン語でアンノ・ドミニ((Anno Domini、AD)、つまり、イエス・キリストが支配君臨している年数という意味のキリスト教の紀元(基紀)であり、宗教思想上においてその中核となる宗教概念となっているものです。

 それを意図的に浸透させた人たちと、元号は天皇制の象徴であるに思想的な拒絶感を持っている人たちが連携して、宗教的潔癖感のない大衆という愚民を洗脳して、これを浸透させてきたのです。

 我が国には、「元号法」はあっても、基督教紀元暦法(西暦法)は存在しません。ですから、国民には、基督教紀元暦という宗教紀元の表示を受容しなければならない義務はないのです。

 私は、本件の訴訟と同じ主張で国家賠償訴訟を提起したことがあります。それは、平成18年のことですが、戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が静岡刑務所に服役中に、被収容者が刑務所に対して各種出願を行う「願せん」に、キリスト教紀元西暦を意味する「20   年 月 日」と印刷された文書があったことから、これを違憲・違法であるとして戸塚校長の訴訟代理人として提訴したことがありました(東京地方裁判所平成18年(ワ)第22787号事件)。しかし、国は、年号を訂正して元号を使用することの自由を奪っていないなどとの詭弁を弄して責任逃れをして、違法性はないと主張してきたのです。

 この事件における国の答弁としては、「わが国は元号法はあるが西暦法はないこと、西暦がキリストの誕生の年(実際は生後4年目)を紀元とする西洋の暦であることは認める」とし、さらに、「基督教暦を使用しなければならない義務はないとする点については、刑務所内の文書等に年表記するに当たって西暦を使用しなければならない義務はないという限りで認める」という曖昧な認否をしましたが、少なくとも、いわゆる「西暦」が「キリスト教紀元暦」であることを否定しませんでした。ですから、今回の訴訟において、被告の国は、どんな認否をしてくるのでしょうか、大いに興味があります。これは、まさに安倍内閣に突きつけられた試金石ともいうべき問題なのです。

 「西暦」は習俗化しており、多くの国民には宗教的潔癖感がないので、多数決原理によって西暦(基督教紀元暦)を使ってもよいのではないかという議論がありますが、これは「自由主義」を否定する著しい暴論です。たった一人でも、これに宗教的潔癖感で拒絶する人が居れば、それを保護するのが「自由主義」なのです。信教の自由というのは、多数決原理で否定できるものではないのです。

 ここに、「民主主義」と「自由主義」との決定的な理念の違いがあります。民主主義とは、多数者が少数者を弾圧する思想システムですが、自由主義とは、多数者と言えども、多数決原理によって少数者を弾圧できない思想システムなのです。その意味では、これらは正反対の原理です。

 私は、宗教的潔癖感によって「西暦」と「虚訳」された「基督教紀元暦」を拒絶する少数者に寄り添って、その「自由」を守るために、この訴訟を引き受けました。この訴訟で問うのは、数による横暴を究極的な本質とする「民主主義」に対抗できるのは、少数者の権利と自由を守る「自由主義」しかないということなのです。

 「祭祀の道」の「第六回 太陰太陽暦と祭祀」(平成22年1月30日)で、私は、今回の主張の基礎となるものを述べていますので、もう一度読み直していただきたいと思います。ここでは、明治5年の改暦のことや、真正太陽暦(立春元旦説)のことについて述べています。
 このうち、真正太陽暦(立春元旦説)というのは、戦前の国際連盟において、伊勢の皇太神宮を基点として、その真上の天空を通る子午線を基準とした真正太陽暦(日本暦)を採用したうえで立春を元旦とすることが提案されて検討されていたのですが、残念なことに、我が国が昭和8年3月に国際連盟を脱退したことによってその採用が見送りになった経緯があったことを述べました。

 このような先人の智恵が生かされずに実現できなかったことが、現在の世界の混乱、とりわけ、宗教対立が背景にある世界の紛争の原因の一つとなっているのであり、そのような事態になったことは残念でなりません。

 わが国には、固有の紀元である「皇紀」があり、これを世界的に復活させるべきです。現に、わが国の残留将兵に率いられたスカルノなどによるインドネシア解放戦争によって、インドネシアは独立しましたが、そのときにおける独立宣言の年号は、「2605年8月17日」と表記されました。
 これは、皇紀年号であり、これは、「宗教暦」である「基督教紀元暦(西暦)1945年」ではないのです。

 皇紀や元号には、「宗教色」はありません。歴史的伝承と天皇による改元という事実に基づくものだからです。元号はわが国固有のものですが、皇紀は世界的な普遍性がありました。ですから、インドネシアの独立宣言も「皇紀」で表示されたのです。わが国がポツダム宣言を受諾して、その直後に独立が奪われた状況において、インドネシアの独立宣言に容喙できる余地は全くなく、これはスカルノらによるインドネシア独立政府の独自の判断により、誉れある皇紀を採用したという歴史的事実なのです。

 しかし、現在の世界情勢を大きな視座から俯瞰すれば、イスラム教の勢力が昂揚し、キリスト教の勢力が減退していることが、世界の様々な問題を引き起こしている原因になっていることが明らかです。欧米のキリスト教勢力による独善的な世界支配は、そろそろ終焉に向かっていますが、このような独善的な特定の宗教支配を一刻も早く終わらせなければ、世界平和の道は益々遠のきます。

 少しでも世界平和への道を模索しようとするのであれば、全世界の国家や地域が全て参加する国際会議において、特定の宗教色がない非主教的な暦(紀元)、すなわち「世界暦(World era)」を創設することによって、
世界平和に貢献できる一助となるはずです。

 この「世界暦(World era)」は、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教などの特定の宗教とは無縁的に独立した、全く宗教性のない暦(紀元)の年号であるべきです。

 地球誕生や人類誕生の時期、それに、立春、冬至などの観測現象などを根拠とする科学的な考察によって設定された紀元(暦)を創設する必要があります。それには、その有力候補の一つとして、勿論「皇紀」も含まれます。

 いずれにしても、年数表記は統一しなければ、国家行為や国民生活に混乱を生じますので、国家としては、紀元表記を統一させなければならない義務があります。これは、国語においても、勝手に個々人が文法や単語を決めて流通させれば混乱するので、国語表記と文法を統一させて、法令や生活言語の意味を共通認識させなければならないことと同じなのです。この義務化を人権侵害だと主張するのは、個人主義の極限的な謬説(びょうせつ)であって、到底受け入れられるものではありません。

 従って、わが国において、宗教色のない「元号」で年数表記を統一させることを義務付けさせることは当然のことであって、これとは逆に、宗教色のない元号を拒絶して、特定の宗教暦であるキリスト教紀元暦で年数表記を義務付けする主張は、仮に、それがクリスチャンの手前味噌な主張ではないとしても、あるいは、他宗教ないしは無宗教の人の主張であるとしても、信教の自由を否定する論理矛盾の主張であることは明らかであり、いわゆる「人権意識」、「自由意識」が欠落した見解であると断言せざるを得ないのです。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。