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千座の置き戸 第十一回 刑罰と体罰-5/5

毎月 1日と15日に塾HPに掲載しています
千座の置き戸 

こちらのブログにも転載いたします。
原文より仮名遣いを慣れたものに変え、一部読み仮名をつけています。

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第十一回 刑罰と体罰

                    南出喜久治(平成26年9月15日記す)

つみとがを おかせしものを みそぎにて しおきしてこそ みだれととのふ
(罪咎を犯せし者を禊にて仕置きしてこそ秩序乱れ整ふ)

【体罰の具体的態様】

 これまで、体罰が認められるということを説明したのは、体罰を積極的に奨励しようとすることではありません。これは、軍備の場合と同様で、どんなことに対しても軍事力を発動することを積極的に奨励することと、軍備の必要性を説くこととは全く違うのと同じです。これまで、構造論(ハードウエア)としての体罰が肯定できることは理解できても、これとは別に技術論(ソフトウエア)としての体罰について考えることまで議論が進みませんでした。

 体罰は、年齢、性別、攻撃部位、方法、態様、時間などの一般要件と対象者の体質などの個別的要件によって決まります。これを精緻に検討する必要があるのです。ところが、体罰の技術を最も習熟しなければならない教師について、体罰を全面禁止するために、その研究は全くされて来なかったのです。そのために、「なんとかに刃物」というように、教師も体罰については素人であるために、体罰として称して単なる暴力を振るうことが起こり、世間を騒がせているのです。

 「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(チェスタトン)という言葉は重く受け止める必要があります。

 親も教師も子供も、合理主義に犯されて本能が「劣化」して、本能原理による体罰の仕方が判らないのです。手加減や方法も無視して、体罰と称して行う単なる暴行、傷害が横行し、これが体罰なのだとしてマスコミは「反体罰キャンペーン」を展開します。
 社会全体が合理主義の波に飲み込まれ、危険な場所に一切子供を近寄らせないというような過保護の施策を講じていることから、子供は、危険とは何か、それを回避して身を守るためにはどうすればよいのかなどということについてトレーニングする機会がないために益々「本能の劣化」が進行します。

【むすび】

 では、どうすればよいのでしょうか。これを一言で言うのは難しいですが、まずは、教師に体罰の技術の研修を一斉に行って体罰の技術を習得させた上で、学校教育法第11条但書(体罰禁止)を削除することです。
 体罰の技術について一言で言うことはできませんが、ヒントと指針を示すことはできます。ビンタをするときは、なるべく大きな音を立て、頬に感じる痛みとともに子供に驚愕(きょうがく)させることが必要ですが、決して痣が残らないようにすることがコツなのです。体罰は後に残らない一過性のものでなければならないからです。

 これは、禅宗の座禅における「警策」の要領です。警策とは、修行者の肩ないし背中を打つための棒を指しますが、曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と言います。警策で打つことも有形力の行使ですが、誰もこれを咎めることはしません。これは、システム化された修行を目的とする有形力の行使であり、大きな音を立てて痛みを感じさせ、脳科学的に「体罰」の目的と効果を実現する方法なのです。このような体罰技術の類型化、マニュアル化が必要なのです。
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