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千座の置き戸 第十一回 刑罰と体罰-1/5

毎月 1日と15日に塾HPに掲載しています
千座の置き戸 

こちらのブログにも転載いたします。
原文より仮名遣いを慣れたものに変え、一部読み仮名をつけています。

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第十一回 刑罰と体罰

                    南出喜久治(平成26年9月15日記す)

つみとがを おかせしものを みそぎにて しおきしてこそ みだれととのふ
(罪咎を犯せし者を禊にて仕置きしてこそ秩序乱れ整ふ)

【体罰の定義】

 そもそも体罰とは何か。暴行や虐待とどう違うのか。このことについて誰も触れずに、世間では「体罰は悪、体罰反対」と大騒ぎしています。
 しかし、体罰とは何かについて明確に定義しなさいと尋ねても、誰も答えないのです。つまり、マスコミも付和雷同的な浮き草世論も、体罰の定義をせずに批判しています。

 体罰について定義すれば、それは「進歩を目的とする有形力の行使」であり、本能行動に分類されるのです。
 有形力の行使には、「許されるもの」と「許されないもの」とがあり、それは目的の正当性と効果の妥当性によつて区分されます。もちろん、体罰は許された有形力の行使であって、それ以外のものとは区別されます。

 行為の目的の有無というのは重要です。医師による医療行為の中で、たとえば外科手術が許されるのは、それが医療行為という正当な目的があるからです。外科手術においてメスなどを使って患者の身体を切り裂いて執刀したが、医師の過失で患者を死に至られしめたとき、その罪名は業務上過失致死罪であり、決して殺人罪とか傷害致死罪ということにはなりません。正当な目的があったか否かによって罪名まで異なるということです。

 診察のため泣き叫ぶ子供を親が押さえ付けて医師が診察する行為は、平成12年の児童虐待防止法の「虐待」に該当するのかについて定義が定かではありません。これが勿論違うというのであれば、有形力の行使における「目的」によって合法行為か違法行為かを区別すべきですが、同法にはこの定義が明確ではないのです。

 また、教育の現場においても、炎天下などの状況で教師による体育指導によって不注意にも生徒に怪我や疾病が生じたときでも、教育という正当行為によるものであれば、業務上過失傷害罪であって、決して傷害罪にはなりません。ところが、桜宮高校事件のように、体罰とは異質の単なる「暴行罪」「傷害罪」についても、これを「体罰」だと一括りにして、体罰=暴行としています。「許された行為」か「許されない行為」かについて、目的、程度、効果などによる区分をしない「無定義」で「無制限」の体罰が一人歩きしているのです。

【戸塚ヨットスクール事件】

 昔、戸塚ヨッスクール事件という、教育界における初めての「国策捜査」によって事件が作り出されました。800人を超える情緒障害児の教育的矯正に成功した戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏氏のこれまでの実績に嫉妬と怨嗟(えんさ)した教育界が、自己の教育理論の誤りを指摘されたことを逆恨みして、自己保身のために捏ち上げた事件です。
 この事件は、事案の事実関係や報道のあり方もさることながら、罪名に本質的な問題がありました。

 罪名は、傷害致死、監禁致死であり、業務上過失致死傷ではなかったのです。つまり、戸塚ヨットスクールは、親から委託されて親権に属する懲戒権(体罰を含む)を代理行使してきたのであり、学校教育法の定める学校ではないので、第11条但書の体罰禁止条項の適用は受けず、その教育的矯正には正当な目的があったのに、これを全否定したのです。戸塚校長らの行ってきたことは「教育ではない」として断罪しました。

 しかし、結果的には、生徒が死んでいます。もし、それに過失があれば業務上過失致死傷として裁かれることは当然であって、そういう罪名であれば戸塚校長らは甘んじてこの事件処理を受け入れたはずです。
 戸塚弘長の教育の全否定は、全人格否定に等しいのです。前例で言えば、外科医の手術が傷害致死罪や殺人罪に問われ、教師が傷害罪に問われたのと同じです。もし、そんな事件処理があれば、世間は大騒ぎしたのに、戸塚ヨットスクール事件は、メディアの情報統制によって、この問題提起は全くなされずに、専ら事実関係の争点を指摘するだけにして、事件の本質が隠蔽(いんぺい)されてしまったのです。
毎月 1日と15日に塾HPに掲載しています
千座の置き戸 

こちらのブログにも転載いたします。
原文より仮名遣いを慣れたものに変え、一部読み仮名をつけています。

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第十一回 刑罰と体罰

                    南出喜久治(平成26年9月15日記す)

つみとがを おかせしものを みそぎにて しおきしてこそ みだれととのふ
(罪咎を犯せし者を禊にて仕置きしてこそ秩序乱れ整ふ)

【体罰の定義】

 そもそも体罰とは何か。暴行や虐待とどう違うのか。このことについて誰も触れずに、世間では「体罰は悪、体罰反対」と大騒ぎしています。
 しかし、体罰とは何かについて明確に定義しなさいと尋ねても、誰も答えないのです。つまり、マスコミも付和雷同的な浮き草世論も、体罰の定義をせずに批判しています。

 体罰について定義すれば、それは「進歩を目的とする有形力の行使」であり、本能行動に分類されるのです。
 有形力の行使には、「許されるもの」と「許されないもの」とがあり、それは目的の正当性と効果の妥当性によつて区分されます。もちろん、体罰は許された有形力の行使であって、それ以外のものとは区別されます。

 行為の目的の有無というのは重要です。医師による医療行為の中で、たとえば外科手術が許されるのは、それが医療行為という正当な目的があるからです。外科手術においてメスなどを使って患者の身体を切り裂いて執刀したが、医師の過失で患者を死に至られしめたとき、その罪名は業務上過失致死罪であり、決して殺人罪とか傷害致死罪ということにはなりません。正当な目的があったか否かによって罪名まで異なるということです。

 診察のため泣き叫ぶ子供を親が押さえ付けて医師が診察する行為は、平成12年の児童虐待防止法の「虐待」に該当するのかについて定義が定かではありません。これが勿論違うというのであれば、有形力の行使における「目的」によって合法行為か違法行為かを区別すべきですが、同法にはこの定義が明確ではないのです。

 また、教育の現場においても、炎天下などの状況で教師による体育指導によって不注意にも生徒に怪我や疾病が生じたときでも、教育という正当行為によるものであれば、業務上過失傷害罪であって、決して傷害罪にはなりません。ところが、桜宮高校事件のように、体罰とは異質の単なる「暴行罪」「傷害罪」についても、これを「体罰」だと一括りにして、体罰=暴行としています。「許された行為」か「許されない行為」かについて、目的、程度、効果などによる区分をしない「無定義」で「無制限」の体罰が一人歩きしているのです。

【戸塚ヨットスクール事件】

 昔、戸塚ヨッスクール事件という、教育界における初めての「国策捜査」によって事件が作り出されました。800人を超える情緒障害児の教育的矯正に成功した戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏氏のこれまでの実績に嫉妬と怨嗟(えんさ)した教育界が、自己の教育理論の誤りを指摘されたことを逆恨みして、自己保身のために捏ち上げた事件です。
 この事件は、事案の事実関係や報道のあり方もさることながら、罪名に本質的な問題がありました。

 罪名は、傷害致死、監禁致死であり、業務上過失致死傷ではなかったのです。つまり、戸塚ヨットスクールは、親から委託されて親権に属する懲戒権(体罰を含む)を代理行使してきたのであり、学校教育法の定める学校ではないので、第11条但書の体罰禁止条項の適用は受けず、その教育的矯正には正当な目的があったのに、これを全否定したのです。戸塚校長らの行ってきたことは「教育ではない」として断罪しました。

 しかし、結果的には、生徒が死んでいます。もし、それに過失があれば業務上過失致死傷として裁かれることは当然であって、そういう罪名であれば戸塚校長らは甘んじてこの事件処理を受け入れたはずです。
 戸塚弘長の教育の全否定は、全人格否定に等しいのです。前例で言えば、外科医の手術が傷害致死罪や殺人罪に問われ、教師が傷害罪に問われたのと同じです。もし、そんな事件処理があれば、世間は大騒ぎしたのに、戸塚ヨットスクール事件は、メディアの情報統制によって、この問題提起は全くなされずに、専ら事実関係の争点を指摘するだけにして、事件の本質が隠蔽(いんぺい)されてしまったのです。
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