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千座の置き戸 -第九回 ジキルとハイド -1/5 

毎月 1日 15日とに公式ホームページに掲載しています。
千座の置き戸 8月15日掲載分をこちらにも転載いたします。

原文は こちら
ブログ用には原文に一部、読み仮名をつけたり 仮名遣いを変更したものを掲載いたします。



連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第九回 ジキルとハイド

                    南出喜久治(平成26年8月15日記す)

さかさまの まじはりあはぬ いひわけを わけずかたれば こころやぶるる
(逆様の交はり合はぬ言ひ訳を別けず語れば心破るる)

 『ジキル博士とハイド氏』は、イギリスのスチーブンソンが明治19年(1886+660)に著した小説ですが、我が国ではその3年後の明治22年に帝国憲法が発布されたわけですから、ずいぶん古い話です。
 これは、二重人格を題材にした怪奇で不気味な作品として世界的に話題となりましたがこのプロットは、次のようなものです。
 ジキル博士は、自分の中にある善と悪とをそれぞれ別の人格に分離するための薬剤を発明し、ジキルがそれを服用すれば外観が醜悪で品性が下劣なハイドに姿まで変えられて悪の人格になれることに成功したのです。また、その逆に、薬を飲んでハイドになった後に再びジキルに戻る薬も発明し、ジキルになったりハイドになつたりして人格が入れ替わるという話です。

 二重人格とか多重人格というのは、人格障害の一種として、自我の継続的統一性が失われて、2種又はそれ以上に分裂するものとされていますが、自我の継続的統一性が失われない場合でも、善なるものと悪なるもののいずれかが他を押さえつけて強く出てくることや、それが入れ替わったりすることもあります。何かがあって、魔が差したとか、仏心が出たとか、心変わりがしたとか、心を入れ替えたとか、あるいは復讐の鬼と化したとか、と言ったようにです。

 このようなことは、人格向上とか人格低下とかの感情の波によって左右されることがありますが、相反する感情が同時に存在するのは、決して異常なことではありません。
 つまり、相対立する二重の感情を抱くのは本能原理にはよくあることなのです。可愛さ余って憎さ百倍、イヤヨイヤヨも好きのうちという複雑な感情があるのは、交感神経と副交感神経とのバランスによって生命が維持されているための証でもあります。

 アンビバレンス(ambivalence)とか、その形容詞形のアンビバレント(ambivalent)という言葉があります。両向性とか相反性などと訳されたりしますが、定着した訳語はなく、要するに、ジキルとハイドのような二重人格とか二重感情のことです。

 しかし、厳密に言えば、本能原理からくる「感情」と理性原理からくる善悪の「判断」とは厳格に区別する必要があります。
 感情というのは、理性的に善悪を判断した上で出てくるものではありません。本能に基づく感情というのは、思考を経由せずに瞬間に生ずるもので、理性による判断に基づいて生ずるものではありません。

 ところで、おなじイギリスで生まれ、スチーブンソンと同世代の小説家であったチェスタートンは、「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」と言ひました。つまり、ジキルとハイドで描かれている善悪の区別はすべて理性の産物であって本能の産物ではないということです。

 「欲望=本能=悪」と捉えるのは合理主義の致命的な誤りです。理性も欲望を押さえる働きがありますが、根本的な秩序を形成したり維持したりするために、これを破壊する欲望を抑えるのは本能の働きなのです。
 本能とは、個体の生命維持の機能と種内の秩序維持の機能の体系ですから、剥き出しの欲望を抑制することによって秩序維持を果たすのも本能の働きなのです。たとえば、近親相姦をしないのは、家庭内の秩序維持のために近親者には性欲を感じさせないようにして抑制した本能の働きなのです。人は理性的な理屈や道徳的な学習効果によって近親相姦に及ばないのではないのです。むしろ、本能が低下したり壊れた人が近親相姦に及んだりするのは歴史的に見ても頷けることです。
 
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