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千座の置き戸 - 第八回 義理と人情-3/4

毎月 1日と15日に 塾HPに掲載しております。
千座の置き戸 8月1日に掲載したものはこちら 國體護持塾HP

こちらのブログには読み仮名を一部につ読み慣れた仮名遣いのものを転載いたします。

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第八回 義理と人情

                    南出喜久治(平成26年8月1日記す)

をとこさび よわきしものを かかへこみ つよきにむかふ さだめはてなし
(男さび弱きし者を抱へ込み強きに向かふ宿命果てなし)


ここで「義」というのは、利欲に左右されず、人として行うべき正しい道ということで、「義を見てせざるは勇無きなり」(論語)の「義」ですので、理性の産物であることは明らかです。義と不義とを比較して認識し、義に従って行動しなければ勇がないとの価値判断ですから、そこには計算があり気負いがあるのです。計算という言葉に違和感があるのであれば、比較考量(ひかくこうりょう)という言葉に置き換えてもよいのです。理性とは、この比較考量する働きなのです。

 ですから、幡随院長兵衛に始まる任侠は、弱き者を助けることに主眼があるのではなく、強き者を挫くことを目的とし、強き者が弱き者を虐げることを許さないという大義名分が先行します。大義名分とは、義から派生したものですが、「義理」に近いものです。義の意味に加へて、「掟」や「体面」、「面目」、「本分」が加はつたものです。人を取り巻く様々な人間関係や社会関係によって「義」が規律されることです。

 そうなってくると、義は人の数だけ存在します。こちらの義は、相手にすれば不義です。それぞれの人にそれぞれの義があるということです。弱い者でも邪な人は居ますし、強い者でも善行を積む人だって居ます。強い者の世話になって、義理で縛られてうる弱い者も居ます。義というものは、関係性で決定される性質のものであるということになります。

 ですから、「侠」のように、必ず弱い者に寄り添う行動をするとは限りません。強い者に付くか、弱い者に付くか、という選択を迫られたら、一般には、弱い者に付くことは損をする道です。その意味では、前に紹介した宮崎説とは結果は同じですが、常にそうであるかは判りません。その例外もあるので、やはり、「常に」弱い者に寄り添うことを「侠」とすべきことになります。

 現代は、富める者はますます富み、その反面で貧しい者はますます貧しくなってきています。所得格差、資産格差はさらに大きく広がっています。しかも、それを加速させているのは政府の政策にあります。これが世界的な大きな傾向です。

 富者がさらに富めば、そのおこぼれを貧者が貰えて少しは豊かになって行くとする新自由主義によるトリクルダウン理論を信じて世界共通の経済政策が進んでいますが、そのためにますます格差は広がっています。トリクルダウンではなく、現実にはトリクルアップになっていますので、この理論は完全に破綻しているのですが、それが判っていながら政策が継続され、ますます深刻な事態になってきています。
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