スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

千座の置き戸 - 第八回 義理と人情-2/4

毎月 1日と15日に 塾HPに掲載しております。
千座の置き戸 8月1日に掲載したものはこちら 國體護持塾HP

こちらのブログには読み仮名を一部につ読み慣れた仮名遣いのものを転載いたします。

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第八回 義理と人情

                    南出喜久治(平成26年8月1日記す)

をとこさび よわきしものを かかへこみ つよきにむかふ さだめはてなし
(男さび弱きし者を抱へ込み強きに向かふ宿命果てなし)


ところで、この「侠」や「任侠」の意味について、ある人がこんな定義をしました。それは、前が道に二つに分かれていて、一方は得をする道、他方は損をする道であるとき、常に損をする道を選ぶのが「俠」だという考えです(宮崎学氏)。
 たとえば、電車の中で、一人の女性が沢山の男達に囲まれていじめられていたとき、ある人がそこに乗り合わせてそれを目撃したとしましょう。その人としては、見て見ぬふりをして次の駅で降りることもできます。また、もし、沢山の男達に注意して止めさせようとすると、その男達から何をされるかも判りません。そんなときどうしますか。任侠というのは、たとえ男達にボカスカに殴られてその女性の前でも大恥をかくことになったとしても、その最も損をする道を選ぶのが任侠だと言うのです。

 ところで、「任侠」の「侠」の本字(俠)の字義は、弱い人を庇って両脇に抱える力のある人の姿を意味します。そうであれば、侠とは、強きを挫き弱きを助く、との意味であるとする説明とは、どうも違うようです。
 「強きを挫くこと」と「弱きを助けること」とは、決して並列、同列ではありません。初めに「弱き者を助ける」ことが最優先であって、その弱き者を守るために必要不可欠なことであれば、強き者を挫き、あるいは、強き者を遠ざけ、強き者から逃れるということが「侠」なのだと考えます。
 弱き者に寄り添って助けるために、やむを得ず強き者と向き合わざるを得ない立場になっても、それを受け入れる覚悟をして実践することが「侠」なのです。

 ですから、「侠」には、初めから強きを挫くという積極的な意味はないはずです。弱い者に寄り添った結果、強い者と対峙することになりうるということです。これは、まさに人情の世界です。
 先ほどの電車内の事例では、結果的には同じ方向になりますが、その態様を異にすることになります。つまり、強きを挫こうとして単純に力で対抗して大怪我をするのではなく、弱き者を助けることを至上命題として、男達を宥(なだ)めたり賺(すか)したりして、次の駅まで時間稼ぎするなど、ありとあらゆる方法をとって、強き者と向き合うことなのです。体裁や格好が悪いと思われても、いや、それどころか、周りから顰蹙(ひんしゅく)を買うような惨めで格好の悪いことをしてでも、最良の結果を出すために必死に努力するのが「侠」なのです。「韓信の股くぐり」が「侠」であり、格好の悪さが「侠」の原点です。そう言えば、長谷川伸の描く戯曲に登場する人物は、どう見ても身震いするほどの格好のよさがあるとは到底思えません。

 ところが、幡随院長兵衛の場合は、大見得を切って、大衆の喝采を浴び、堂々と正攻法で強きを挫くための方便と大義名分のために弱きを助けるものとして描かれました。つまり格好の良さが幡随院長兵衛の真骨頂なのです。ですから、これは、理性によって計算され尽くした「義」と言えます。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。