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千座の置き戸 - 第八回 義理と人情-1/4

毎月 1日と15日に 塾HPに掲載しております。
千座の置き戸 8月1日に掲載したものはこちら 國體護持塾HP

こちらのブログには読み仮名を一部につ読み慣れた仮名遣いのものを転載いたします。

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第八回 義理と人情

                    南出喜久治(平成26年8月1日記す)

をとこさび よわきしものを かかへこみ つよきにむかふ さだめはてなし
(男さび弱きし者を抱へ込み強きに向かふ宿命果てなし)

 長谷川伸(はせがわ しん)という、精力的に作品を書き続けた劇作家が居ました。『沓掛時次郎(くつかけときじろう)』や『瞼の母』などの股旅物(まただびもの)の先駆者(せんくしゃ)として大衆文学の発展向上に大いに貢献した人です。また、戊辰戦争において、新政府軍東山道軍(とうさんどうぐん)の先鋒を勤めたが、最期は偽官軍とされても物言わずに処刑されて散って行った相楽総三(さがら そうぞう)らの赤報隊(せきほうたい)についても、その汚名をそそぐための真摯な検証と考察を残した歴史家としても尊敬すべき人でもありました。

 これら長谷川伸の作品で描かれてきたのは、義理と人情のしがらみで、その中で人はどう生きるのかということを我が身に置き換えて考えようとする等身大の課題でした。
 そして、私も、その作品による芝居の余韻が消えないまま、「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」という『唐獅子牡丹(からじしぼたん)』で彩られた東映の任侠(にんきょう)映画の全盛時代を経て、義理とは何か、人情とは何か、という根源的な課題を追い求めてきました。所属する組織の考えと個人の考えとの相克、世の中の風潮と自分の生き方との乖離、そんなことと重ね合わせて、同じ世代の多くの人が見つめてきたのだと思っています。

 長谷川伸が作品で描いてきたのは、今から考えると、「人情の捨て難さ」だった思いますが、だんだんと社会が硬直化した管理社会になればなるほど、「義理の重たさ」が強調されることになってきました。しかし、東映の任侠映画では、やはりその最期には、必ず人情の捨て難さで締めくくられて終わるために、義理や管理で雁字搦め(がんじがらめ)になって、不平不満と恨みを抱く大衆の支持と共感を得て、その溜飲(りゅういん)を下げさせてきたのだと思ひます。

 ところが、私は、このような長谷川伸や任侠映画の潮流(ちょうりゅう)が、これまでの歴史的な「任侠」のイメージとは、どうも違うと感じていました。
 長谷川伸の世界や任侠映画の世界は、なにしろ全体的に「暗い」のです。これは、江戸時代の幡随院長兵衛(ずんばいいんちょうべい)などの侠客(きょうきゃく)を描いた芝居や映画には「明るさ」があることと比較して尚更そう感じます。

 江戸期に、任侠を旗印とした幡随院長兵衛が町奴の頭領として登場し、旗本奴(はたもとやっこ)と争って誅殺(ちゅうさつ)された事件は、歌舞伎狂言の題材となりました。そのために、史実から離れて大きく潤色されたこともありましたが、これがその後の侠客の歴史と実態に大きな影響をもたらしたのです。
 そして、その歴史を貫いて語られてきたのは、任侠の意味を「強きを挫(くじ)き弱きを助く」とすることにありました。

 しかし、これには現実と乖離(かいり)した無理な気負いがありました。歴史的に見て、江戸幕府の将軍の膝元である関八州では、幕府の治安対策として、博打(ばくち)打ちが捕吏(ほり)を兼ねたことがあり、いわゆる「二足の草鞋(わらじ)」を履いていたのですから、強きを挫くなどとは絵空事でしたし、弱きを助けることも殆どありませんでした。もちろん、今もそうです。

 強きを挫くとは、強きに「刃向かう」、つまり「刃向く」(はむく)」ということですが、二足の草鞋を履けば、刃向かうどころか「はむく」(へつらふ)ことになります。同じ「はむく」ですが、全く正反対です。これこそ、言葉の「二足の草鞋」なのです。
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