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連載 千座の置き戸 第七回 学問と生活-4/5

毎月 1日と15日に塾HPに掲載しております。 千座の置き戸 7月15日分を
こちらのブログにも掲載いたします。本日は3回目
ブログには読み慣れた仮名遣いに変更した物を掲載しております。
元の文章は こちら


連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第七回 学問と生活

                    南出喜久治(平成26年7月15日記す)

いにしへゆ こころといのち はぐくむは うたとまつりの くにからのみち
 (古昔より心と命育むは和歌と祭祀の国幹の道)

このことによって、私は万葉集に接する態度が一変しました。学者の書いた和歌の解説書を見なくなりました。そのまま何度も詠んで味わうことにしました。そして、万葉集にある好きな一首だけのために、その故地を巡ることも大きな意義があると思いました。

 万葉集を編纂したとされている大伴家持が生まれてから、後4年すると生誕1300年になりますが、万葉歌人と今出会っても、自分自身が歌によって会話できるほどの歌人になっていることが重要であり、それこそが歴史と伝統を実践的に守るということなのです。

 このような姿勢で和歌に接してきましたが、その後になって、さらに、これまでの先人や先輩が和歌に接してきた視点について根本的な疑問を抱くようになりました。それは、和歌は何のためにあったのか、といふ存在根拠についての大きな疑問です。

 それは、これまでは、万葉集にある歌に限らず、その他の歌集の歌のすべてについて、それらを歴史、文学、国学の研究対象の資料としてきたことに対する疑問です。はたしてこれでよいのか、ということです。

 そして、私は、このことについて、ある結論に達しました。それは、和歌とは、祭祀の実践資料であるというものです。

 万葉集については、江戸期における下河辺長流や契沖の研究があり、現在に至るまで多くの研究者が出ましたが、誠に残念なことに、誰一人として和歌を祭祀の実践の視点で捉へている人が居ないのです。あくまでも「学問」の対象だったのです。

 和歌(やまとうた)が歴史上初めて登場するのは、古事記にある、スサノヲノミコトが詠まれた「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の和歌です。
 祭祀の道でも説明しましたが、この八雲立つの歌には、歌意の言霊もさることながら、さらに別の意味があります。

 つまり、(や)八雲立つ (い)出雲八重垣 (つ)妻籠みに (や)八重垣作る (そ)その八重垣を の各句の頭を繋げますと、や(八)・いつ(五)・や(八)・そ(十)の合計で三十一となっており、この数霊(かずたま)が、和歌(やまとうた)の、五・七・五・七・七の三十一文字(みそひともじ)を導いているのです。

 和歌のことを「八雲の歌」とも呼ぶように、この和歌は、言霊と数霊とが見事に示されたものと言えます。ここに「八重垣」という言葉が出てきますが、祭祀の視点で理解すれば、これは「歌垣」です。何重にも何重にも人が取り囲んだ人垣が、歌垣となって祭祀でカミに捧げる和歌を奏上し、夫婦が共同生活を始める「つまごみ」を祝うのです。

 古神道には、祭祀の原型を留めており、神への祭祀(いはひまつり)における「祝詞」とは「和歌」(長歌、短歌など)だったのです。和歌は、本能から生まれる感性によって、言霊を打ち振わせます。しかし、それが延喜式で歪められて、いまでは祝詞は「大祓詞」などのような合理主義的な物語文や説明文になってしまいました。

 しかし、万葉集で編纂された和歌は、その殆どが歌垣によって作られ、詠唱されたもので、人々のさまざまな生活の有様を歌い上げたものです。歌垣とは、神人共食の祭祀の宴(うたげ)のことなのです。宴(うたげ)を「うちあげ」から来たとする見解がありますが、どうしてそんなひねくれた解釈をするのでしょうか。もっと素直に「うたあげ」から来ていると理解すればよいのです。「あげ」とは、神への奏上のことです。
 さらに、直会(なほらひ)の語源は、これこそ神人共食として、相嘗(あひなむ)る会ひから来ているものです。つまり、これらはすべて神事そのものでした。
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