スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

連載 千座の置き戸 第七回 学問と生活-3/5

毎月 1日と15日に塾HPに掲載しております。 千座の置き戸 7月15日分を
こちらのブログにも掲載いたします。本日は3回目
ブログには読み慣れた仮名遣いに変更した物を掲載しております。
元の文章は こちら


連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

           第七回 学問と生活

                    南出喜久治(平成26年7月15日記す)

いにしへゆ こころといのち はぐくむは うたとまつりの くにからのみち
 (古昔より心と命育むは和歌と祭祀の国幹の道)

それは、これまで、万葉集やその後の勅撰和歌集その他の多くの歌集をそれなりに味わってきましたが、これを研究の対象とする学問や講釈のあり方や、自己の研究を知らない人に教えるという方法に対して、違和感というか、嫌悪感すら持っていたからです。和歌で飯を食ってはいけない、飯を食うことと和歌を詠むこととは別にしなければならない、そう思っていました。

 その点、犬養先生の姿勢は少し違っていました。犬養先生は、たとえば、大和三山や甘樫の丘、明日香や吉野などの万葉故地を巡り、そこで詠まれた和歌や、ゆかりのある和歌を朗々と犬養節で三度繰り返して詠まれますが、決してその歌の解説はされませんでした。同じ歌を三度繰り返されるのは、言霊と数霊、そして霊振りとの関係で必要なことなのです。「三」は奇数であり素数である初めの数字です。夫婦とその子どもという家族の原型であり、最も尊い数だからです。

 犬養先生は、万葉集の歌を三度詠まれて、「いいですね!」「すばらしいですね!」と感慨深く言はれるだけで、その解説はされずに、次の訪問地へと移動されるのです。これは衝撃的でした。これこそが理屈抜きで本当にその歌を心から味わう姿なのだと後になって思いました。

 もし、和歌の研究を知識欲だけで学問の対象とするのであれば、和歌にゆかりのある場所にわざわざ行くようなことは時間の無駄で、そんなことをしなくても、研究室で文字づらだけを黙読し、文献や辞書などを使って、ああでもない、こうでもないとその意味の解釈をすれば足りるのです。

 このことを「音楽」と比較してみますと、例えば、楽器で演奏せず、実際に声に出して歌ってみることが「音」を「楽しむ」ことなのに、楽器も使わず声で歌うこともせず、黙々と「楽譜」を見つめて研究するというような「音学」との違いと同じことです。
 無言で「楽譜」を眺めてその曲の善し悪しを理解できる人も居るでしょうが、そんな暗い手法ではとても「楽しむ」ことにはなりませんし、生活の中に音楽があるということにもならないことと同じことです。

 初めのうちは、犬養先生の方法に物足りなさを感じていましたが、それが和歌の本当の味わい方だと父から諭されてから、犬養先生がどうして余り解説をされないのかと考えてきました。そして、そのことがやっと判ったのです。犬養先生は確かに万葉研究の第一人者でしたが、その学問的成果を他の人に詳しく解説することでは、万葉集を本当に理解してもらうことにならないと思われたのだと思いました。和歌に接して感動し、これに親しむことが大事なことで、そのことに上下の関係はないからです。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。