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千座の置き戸 -第5回  承詔必謹と東京条約 3/4

HPに6月15日に掲載しました 千座の置き戸 
原文は こちら

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)
           第五回 承詔必謹と東京条約
                    南出喜久治(平成26年6月15日記す)


とつくにの ちぎりをのりと みまがひて まつりごつやみ はらひしたまへ
(外国の契り(条約)を法(憲法)と見紛ひて政治する闇祓ひし給へ)

そして、後で理由を述べますが、憲法としては無効である占領憲法は講和条約に転換して、その限度で有効であるとすることになりますが、このことは法的評価であって、初めから講和条約として締結したものではないことは当然です。
 憲法として無効な占領憲法が講和条約に転換するとしても、これは、似非の憲法改正として仮装したために、勿論、講和条約として我が国と連合国とが調印した事実はありませんが、その評価として講和条約となるということです。

 そうすると、帝国憲法第13条の講和大権によって、入口条約であるポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印という講和条約が締結され、出口条約である桑港条約という講和条約との中間に、占領憲法という名称の「東京条約」(中間条約)があるということになります。占領憲法には、法文形式からして、連合国との合意内容が明記されていないのは当然ですが、連合国との関係において、占領憲法に規定されているような統治機構制度や国家機関を創設して統治するように求められたものと理解すればよいのです。

 講和条約としては、①ポツダム宣言、降伏文書(入口条約)、②占領憲法(東京条約、中間条約)、③桑港条約(出口条約)の順で成立したことになりますが、いずれも同等の講和条約ですから、後方優位の原則から、抵触する事項については、後の条約によって変更されたことになります。

三【講和条約説】

 真正護憲論とは、占領憲法は帝国憲法の第73条、第75条に違反して憲法改正法としては無効であるが、第76条第1項により、講和条約の限度で有効であるとする見解です。
 ポツダム宣言の受諾、降伏文書の調印は、帝国憲法第13条の講和大権に基づいてなされた「入口条約」であり、サンフランシスコ講和条約(桑港条約)という「出口条約」によって独立を回復しましたが、この入口から出口までの長い被占領、非独立の暗いトンネルの中間にあるのが「中間条約」としての「東京条約」(占領憲法)であり、これらのは一連の講和条約群を形成していると評価するのです。
 では、無効な憲法規範である占領憲法がどうして講和条約群の一つとして転換しうる適格性があることの根拠について以下に述べてみたいと思います。

1 まず、昭和21年1月13日、GHQ側が「マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)」に基づいて作成された『日本国憲法草案(GHQ草案)』を我が国政府側に手交して、これによる憲法改正を指令し、このGHQ草案を翻訳した「3月2日案」をGHQがさらに訂正した確定案を政府に強制して閣議決定された「GHQ修正草案」が政府の確定草案(3月5日案)となり、これに若干の字句の訂正を経て、『帝国憲法改正草案要綱』を作成してマッカーサーの承認を得たものであり、その後も、条項の細部に亘って詳細な指示と交渉が繰り返され、これにより政府原案が作成され、さらに引き続き指示と交渉が為され、帝国議会の審議等の国内の形式手続を経て占領憲法となったという経緯があります。つまり、GHQ草案の手交は、講和条約(東京條約、占領憲法条約)の「申込文書」であり、「占領憲法」の制定は「承諾文書」であると評価できます。「契約」は、申込と承諾によって成立するので、文書化することはその証明方法であって、一つの「合意文書」を作成しなければならないことはありません。申込文書と承諾文書の二つの文書によって合意を証明することもできるからです。『条約法条約』第2条(用語)第1項にも、「『条約』とは、国の間において文書の形式により締結され、国際法によって規律される国際的な合意(単一の文書によるものであるか関連する二以上の文書によるものであるかを問わず、また、名称のいかんを問わない。)をいう。」とあり、合意文書が作成されることは要件とされていません。文書の個数にも制約がなく、その名称も問はないので、ポツダム宣言とその受諾、降伏文書の調印が一連の条約であると判断されるのと同様に、GHQ草案の手交とそれによる占領憲法の制定手続と、後に述べるように、GHQの命令によって占領憲法を「英文官報」という文書により公示した経過からすれば、その実質はまさに「講和条約」なのです。

2 また、占領政策の最高決定機関である極東委員会(FEC)は、昭和21年3月20日に、「極東委員会は(占領憲法の)草案に對する最終的な審査権を持っていること」との決定をなしており、同年10月17日において、占領憲法の「最終審査」が未了のまま、事後において占領憲法が「日本國民の自由に表明された意思」に基づくものであるか否かを「再検討」するということになったものの、桑港条約の発効とともに廃止されたという一連の経緯からして、占領憲法は単純に国内系に属する規範ではなく、連合国と我が国との講和条約であることの実質的な性質を有していたことが明らかです。

3 次に、「終戦連絡事務局」の存在が挙げられます。GHQからの命令や連絡を受ける政府側の窓口は、「終戦連絡事務局」であり、これは、ポツダム宣言受諾直後の昭和20年8月19日、マニラに派遣された河邊虎四郎全権がGHQとの「マニラ会談」においてGHQから手交された要求事項に基づいて設置されたものです。この「終戦連絡事務局」は、外務大臣の所管とされ、「大東亜戦争終結ニ関シ帝国ト戦争状態ニ在リタル諸外国ノ官憲トノ連絡ニ関スル事項ヲ掌ル」というものであり、その後に機構と名称が変更されたものの、ポツダム宣言受諾の直後から桑港条約発効までの非独立時代を一貫して存続してきた組織です。それは、占領憲法の施行の前後においても全く変わることはなかったのです。つまり、占領憲法の制定、施行とは全く無関係に独立に至るまで一貫した講和交渉の窓口が置かれていたことになります。

4 そして、この占領憲法制定過程において、当初から外務大臣、そして内閣総理大臣として深く関与してきた吉田茂は、「・・・改正草案が出来るまでの過程をみると、わが方にとっては、実際上、外国との条約締結の交渉と相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層”渉外的”ですらあったともいえよう。ところで、この交渉における双方の立場であるが、一言でいうならば、日本政府の方は、言わば消極的であり、漸進主義であったのに対し、総司令部の方は、積極的であり、拔本的急進的であったわけだ。」(吉田茂『回想十年』第二巻)と回想しているとおり、まさに占領憲法は、交渉当事者の認識としても「外国との条約締結の交渉」としての実態があったということです。
 つまり、占領憲法制定作業は、政府とGHQの二者間のみの交渉によってなされ、政府は常にGHQの方のみを向いて交渉し、帝国議会や臣民の方を向いていなかったことから、占領憲法は、国内法としての憲法ではなく、国際法としての講和条約であったということです。

5 このことは、何も交渉当事者であつた吉田茂だけの感覚や評価に限られたものではなかつたのです。たとえば、上山春平(京都大学名誉教授)は、『大東亜戦争の思想史的意義』の中で、「あの憲法は、一種の国際契約だと思います。」と述べており、有倉遼吉(元早稲田大学法学部教授)も占領憲法が「講和大權の特殊性」によって合法的に制定されたとする見解を示していました。また、黒田了一(元・大阪市立大学法学部教授、共産党系の元・大阪府知事)も、占領憲法を「条約」であるとする見解を示していました。

6 同様に、昭和29年3月22日の衆議院外務委員会公聴会において、外交官大橋忠一議員の発言にも注目すべきものがあります。大橋忠一議員は、第二次近衞内閣当時の外務次官を務め、また、昭和15年11月に松岡外務大臣のもとで外務次官となって日米交渉に携わった外交官ですが、この衆議院外務委員会公聴会において、「GHQの重圧のもとにできた憲法、あるいは法律というものは、ある意味においてポツダム宣言のもとにできた政令に似た性格を持ったもの」という発言をしています。長く外交官を務めた者の判断として、占領憲法は、ポツダム宣言に根拠を持つ下位の法令であるとしているのです。

7 また、吉田茂の第一次内閣発足直後の枢密院審議において、吉田は、「GHQとは、Go Home Quicklyの略語だという人もいる。GHQに早く帰ってもらうためにも、一刻も早く憲法を成立させたい。」と発言して、これが講和の条件として制定する趣旨であることを枢密院に説明し、枢密院は講和独立のためという動機と目的のために帝国憲法改正案を諮詢したことになり、講和条約の承認としての実体があったのです。

8 さらに、吉田茂は、占領憲法が「新日本建設の礎(いしづえ)」となるとして、それを与えてくれたマッカーサーに感謝の書簡を出している。それを与えてくれたというのは、まさに講和条約を受け入れたということであり、独自の憲法であれば、それをマッカーサーが与えてくれたと感謝する必要もないのです。

9 そして、「英文官報」の存在も無視できません。GHQの指令により、昭和21年4月4日から独立回復した昭和27年4月28日までの間、「英文官報」(英語版官報)が発行されていました。これは、外務省の終戦連絡事務局と法制局との協議によって作成し、GHQの承認を得て掲載されるもので、我が国の法令は、すべてGHQとの条約交換公文方式によって公布、公示されてきたのです。そして、占領憲法については、特に厳密にGHQの承認を得て帝国憲法改正案(占領憲法)の英訳文を作成して掲載されたものです。この公文書たる「英文官報」に掲載された「英文占領憲法」が現在でも市販のいくつかの六法全書に掲載されているのは、単なる任意の英訳文ではなく、英文官報掲載された「英文占領憲法」として規範的効力を有する公文書なのです。

10 連合国軍最高司令官総司令部の最高司令官(GHQ/SCAP)であるマッカーサーが発令した、昭和20年9月10日『言論及新聞の自由に関する覚書』(SCAPIN16)、同月19日『日本に与ふる新聞遵則』(SCAPIN33)及び同月22日『日本に与ふる放送遵則』(SCAPIN43)などによる一連の言論、新聞、報道の規制と検閲制度の全体を『日本プレスコード指令』と呼称しますが、削除又は発行禁止処分の対象となる項目としての具体的な内容の一つに、「SCAPが憲法を起草したことに対する批判(日本の新憲法起草に当ったSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に当ってSCAPが果した役割に對する一切の批判。)」が含まれていました。このことは、占領憲法の実質は、GHQ/SCAPと日本国との合意(講和条約)であり、それを国内的には憲法と仮装することの「密約」があったと評価できるものです。つまり、占領憲法は、「憲法」ではないが、その「擬態」として作られたものであり、その本質は講和条約であるということです。

11 また、桑港条約第1条に注目せねばなりません。ここには、「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第23条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」と規定し、同条約の効力発生(昭和27年4月28日)までは、我が国には「完全な主権」がなかったことを宣言した点です。
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