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連載 千座の置き戸 第五回 承詔必謹と東京条約-1/4

HPに6月15日に掲載しました 千座の置き戸 
原文は こちら

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)
           第五回 承詔必謹と東京条約
                    南出喜久治(平成26年6月15日記す)


とつくにの ちぎりをのりと みまがひて まつりごつやみ はらひしたまへ
(外国の契り(条約)を法(憲法)と見紛ひて政治する闇祓ひし給へ)
一【承詔必謹】
 これは、聖徳太子の憲法十七条の「三に曰はく、詔を承りては必ず謹め。」(承詔必謹(しょうしょうひっきん))のことですが、このことを根拠として、昭和天皇が占領憲法を帝国憲法の改正法として公布されたことをもって、占領憲法は有効であるとする見解があります。また、この見解のように、必ずしも意識的に主張するものではないとしても、尊皇の志ある者としては、占領憲法の正統性を否定しつつも、それでもなお無効論に踏み切れない人々の抱いている漠然とした躊躇の本質を顕在化し、代弁したものです。
 そして、この見解(承詔必謹説)は、昭和天皇が公布された占領憲法を無効であると主張することは承詔必謹に背くことになり、占領憲法無効論を唱える者は、みことのりを遵守しない大不忠の逆臣であると言いたいのでしょう。

 しかし、もし、昭和天皇が國體を破壊するために積極的に帝国憲法を否定して占領憲法を公布されたとすれば、占領憲法無効論を承詔必謹に背く大不忠の逆賊と批判する前に、昭和天皇を明治天皇の詔勅に反する「反日天皇」とし、「反國體天皇」と批判しなければならなくなります。つまり、昭和天皇は、祖父帝である明治天皇の欽定された帝国憲法発布に際してのご詔勅(しょうちょく)に明らかに背かれたことになるからです。その上諭(じょうゆ)には、「朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更(ふんこう)ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とされており、まさに占領憲法の制定は「敢テ之カ紛更ヲ試ミ」たことは一目瞭然であって、皇祖皇宗の遺訓と詔勅に背かれ國體を破壊されたことになってしまいます。それゆえ、この承詔必謹説を主張するものは、昭和天皇に對して、「反日天皇」とか「反國體天皇」であるとの不敬発言を言い切る信念と覚悟がなければなりません。果たしてその信念と覚悟はありや。

 そもそも、ポツダム宣言受諾における昭和天皇の御聖断は、進むも地獄、退くも地獄の情況の中で、ご一身を投げ出されて全臣民を救っていただいた大御心によるものであり、占領下の非独立時代での占領憲法の公布は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」という「國體護持の痛み」を伴ったものに他なりません。昭和天皇の平和への強い祈りは、帝国憲法下で即位されたときから始まり、それゆえに終戦の御聖断がなされたのであって、世人の皮相な評価を差し挾む余地のない深淵(しんえん)な御聖断なのです。

 「天皇と雖も國體の下にある。」という「國體の支配」の法理からすれば、「詔(みことのり)」というのは、國體護持のためのもので、決して國體を破壞するものであってはならないし、また、そのように理解してはなりません。ここに詔の限界があります。
 このことは、楠木正成の旗印とされた「非理法権天(ひりほうけんてん)」の釈義によっても説明できます。「非理法権天」とは、一般には、「非」は「理」に勝たず、「理」は「法」に勝たず、「法」は「権」に勝たず、「権」は「天」に勝たずという意味であると説明されます。

 これに照らせば、「法」(占領憲法)の「公布」は、「権」(当時はGHQ)の作用であって「天」(國體)の命ずるところではありません。しかも、その「権」は、「非」(非道)から生じたものです。詔勅は、天命(國體)の垂迹(すいじゃく)であり、他国の軍事占領による非独立状態での強制や欺罔によって簒奪(さんだつ)されたものは偽勅、非勅であって眞の詔勅たりえません。

 その昔、和気清麻呂公は、皇統を断絶させる孝謙天皇(称徳天皇)の勅命に抗して國體を護持せんとしたことから、自らは叡慮(えいりょ)に背く背勅の徒とされ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅國(おおすみのくに)に遠島となりました。太宰府の神司である中臣阿曽麻呂が「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」との宇佐八幡宮の神託があったか否かとの真偽は兎も角(ともかく)も、これにより、道鏡に即位させることを望まれた天皇は、宇佐八幡宮に再度のご託宣(たくせん)を賜るために和気公を勅使として遣わされた。ところが、和気公が「天之日嗣、必立皇緒、無道之人、宜早掃除」(あまのひつぎは必ずこうちょを立てよ、無道の人よろしく早く掃除すべし)と、御叡慮に反する宇佐神宮の託宣が下ったとして天皇に奏上されたところ、その返照(へんしょう)は、これが嘘の報告であるとして勅勘(かんちょく)を受け遠島となり、後にこの詔勅は「非勅」であることが明らかとなったため、和気公は復権し、「天皇と雖も國體の下にある。」とする我が国是が遺憾なく発揮されたのです。そして、嘉永4年、孝明天皇は和気公に「護王大明神」の神号を贈られ、明治7年には護王神社として別格官幣社に列せられたのです。この歴史的事実から、承詔必謹の深層を把握する必要があります。
塾HPに掲載している原文は こちら
こちらのブログには 読み仮名を変更、一部に読み仮名を付けたものを載せています。
連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)
第五回 承詔必謹と東京条約
                    南出喜久治(平成26年6月15日記す)

とつくにの ちぎりをのりと みまがひて まつりごつやみ はらひしたまへ
(外国の契り(条約)を法(憲法)と見紛ひて政治する闇祓ひし給へ)

一【承詔必謹】
 これは、聖徳太子の憲法十七条の「三に曰はく、詔を承りては必ず謹め。」(承詔必謹(しょうしょうひっきん))のことですが、このことを根拠として、昭和天皇が占領憲法を帝国憲法の改正法として公布されたことをもって、占領憲法は有効であるとする見解があります。また、この見解のように、必ずしも意識的に主張するものではないとしても、尊皇の志ある者としては、占領憲法の正統性を否定しつつも、それでもなお無効論に踏み切れない人々の抱いている漠然とした躊躇の本質を顕在化し、代弁したものです。
 そして、この見解(承詔必謹説)は、昭和天皇が公布された占領憲法を無効であると主張することは承詔必謹に背くことになり、占領憲法無効論を唱える者は、みことのりを遵守しない大不忠の逆臣であると言いたいのでしょう。

 しかし、もし、昭和天皇が國體を破壊するために積極的に帝国憲法を否定して占領憲法を公布されたとすれば、占領憲法無効論を承詔必謹に背く大不忠の逆賊と批判する前に、昭和天皇を明治天皇の詔勅に反する「反日天皇」とし、「反國體天皇」と批判しなければならなくなります。つまり、昭和天皇は、祖父帝である明治天皇の欽定された帝国憲法発布に際してのご詔勅(しょうちょく)に明らかに背かれたことになるからです。その上諭(じょうゆ)には、「朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更(ふんこう)ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とされており、まさに占領憲法の制定は「敢テ之カ紛更ヲ試ミ」たことは一目瞭然であって、皇祖皇宗の遺訓と詔勅に背かれ國體を破壊されたことになってしまいます。それゆえ、この承詔必謹説を主張するものは、昭和天皇に對して、「反日天皇」とか「反國體天皇」であるとの不敬発言を言い切る信念と覚悟がなければなりません。果たしてその信念と覚悟はありや。

 そもそも、ポツダム宣言受諾における昭和天皇の御聖断は、進むも地獄、退くも地獄の情況の中で、ご一身を投げ出されて全臣民を救っていただいた大御心によるものであり、占領下の非独立時代での占領憲法の公布は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」という「國體護持の痛み」を伴ったものに他なりません。昭和天皇の平和への強い祈りは、帝国憲法下で即位されたときから始まり、それゆえに終戦の御聖断がなされたのであって、世人の皮相な評価を差し挾む余地のない深淵(しんえん)な御聖断なのです。

 「天皇と雖も國體の下にある。」という「國體の支配」の法理からすれば、「詔(みことのり)」というのは、國體護持のためのもので、決して國體を破壞するものであってはならないし、また、そのように理解してはなりません。ここに詔の限界があります。
 このことは、楠木正成の旗印とされた「非理法権天(ひりほうけんてん)」の釈義によっても説明できます。「非理法権天」とは、一般には、「非」は「理」に勝たず、「理」は「法」に勝たず、「法」は「権」に勝たず、「権」は「天」に勝たずという意味であると説明されます。

 これに照らせば、「法」(占領憲法)の「公布」は、「権」(当時はGHQ)の作用であって「天」(國體)の命ずるところではありません。しかも、その「権」は、「非」(非道)から生じたものです。詔勅は、天命(國體)の垂迹(すいじゃく)であり、他国の軍事占領による非独立状態での強制や欺罔によって簒奪(さんだつ)されたものは偽勅、非勅であって眞の詔勅たりえません。

 その昔、和気清麻呂公は、皇統を断絶させる孝謙天皇(称徳天皇)の勅命に抗して國體を護持せんとしたことから、自らは叡慮(えいりょ)に背く背勅の徒とされ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅國(おおすみのくに)に遠島となりました。太宰府の神司である中臣阿曽麻呂が「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」との宇佐八幡宮の神託があったか否かとの真偽は兎も角(ともかく)も、これにより、道鏡に即位させることを望まれた天皇は、宇佐八幡宮に再度のご託宣(たくせん)を賜るために和気公を勅使として遣わされた。ところが、和気公が「天之日嗣、必立皇緒、無道之人、宜早掃除」(あまのひつぎは必ずこうちょを立てよ、無道の人よろしく早く掃除すべし)と、御叡慮に反する宇佐神宮の託宣が下ったとして天皇に奏上されたところ、その返照(へんしょう)は、これが嘘の報告であるとして勅勘(かんちょく)を受け遠島となり、後にこの詔勅は「非勅」であることが明らかとなったため、和気公は復権し、「天皇と雖も國體の下にある。」とする我が国是が遺憾なく発揮されたのです。そして、嘉永4年、孝明天皇は和気公に「護王大明神」の神号を贈られ、明治7年には護王神社として別格官幣社に列せられたのです。この歴史的事実から、承詔必謹の深層を把握する必要があります。
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