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千座の置き戸 -第四回 軍隊と警察-3/3

毎月 塾HPに掲載しております。千座の置き戸 原文はこちら 塾HP
連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)
本日は 3分割中の最終回 こちらへの掲載分は一部にカナを付けて読み仮名を慣れた物にしてあります。


           第四回 軍隊と警察

                    南出喜久治(平成26年6月1日記す)

うなはらに すめのいはふね くだけちり のちをゆだねた ひとなわすれそ(海原に皇軍の磐船砕け散り後世を委ねた人な忘れそ)

我が国が昭和4年に締結した『戦争抛棄(ほうき)ニ関スル条約』(パリ不戦条約)について、当時の国際法解釈によれば、戦争は、「自衛戦争」と「攻撃戦争」(war of aggression)とに区分され、後者は、一般に、自国と平和状態にある国に向かって、相手方の挑発的行為を受けていないにもかかわらず先制的に武力攻撃を行うことを意味し、それ以外は全て自衛戦争としていたのです。そして、このwar of aggressionを、極東国際軍事裁判において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指示によりこれを「侵略戦争」と誤訳したことから、略取、掠奪の意味を含む一般的な「侵略」の概念との混同を生じたことが今日の混乱を招いています。これは攻撃戦争ないしは不意打ち戦争と訳すべきだったのです。いずれにせよ、自衛戦争か攻撃戦争か、実際に行われた戦争がいずれの戦争として評価されるのかの判断は、各国に「自己解釈権」が与えられていましたので、支那事変を含む大東亜戦争は、まさに開戦詔書にもあるように「自存自衛」の戦争だったのです。

 ともあれ、このような「戦争」の区分概念は、常に混乱します。攻撃戦争を自衛戦争の範囲内であると自己解釈権によって拡大することによって、自衛戦争の概念は広がります。しかし、このように自衛戦争の概念を広げて解釈する場合は、その国に「交戦権」が認められていることが絶対条件です。交戦権が認められていなければ、自衛戦争の概念は最も限定された概念の戦争に限定されます。そうすると、自衛権の一般的な定義である「国家が自己に対する急迫・不正の侵害を排除するためにやむをえず必要な行為を行う権利」に基づく戦争ということになって、ほとんど正当防衛的な迎撃戦争に限定されることになるのです。

 世界的に見れば、警察隊の戦時下の役割は、戦争は軍隊が行うので、それ以外の自衛措置としての鎮圧(警察力によるテロ対策、スパイの検挙、内乱の鎮圧など)ですが、我が国の自衛隊は、警察隊でありながら、これを超えて自衛戦争まで担わせようとする異例な法制度になっているのです。

 「国防」=「交戦権」=「軍隊」 =「戦争」=「ネガティブ・リスト」
 「自衛」=「自衛権」=「警察隊」=「鎮圧」=「ポジティブ・リスト」

という図式が一般的な世界共通のものなのですが、これを前提とすれば、我が国では、「戦争」について「ポジティブ・リスト」で規定する自衛隊にそれを担わせるという異常さが一目瞭然となっていることが直ぐに理解できると思います。

 話は飛躍しますが、我が国の殆どの仏教教団は、「今より僧侶の肉食妻帯蓄髪(にくしょく さいたい ちくはつ)等は勝手たるべきこと(自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為す勝手事)」という明治5年4月25日の太政官(だじょうかん)布告が出されたことを口実として、古来の仏教的戒律を捨て去ったので、シャカが率いたインド伝来の仏教教団ではなくなっています。ですから、古来の戒律を厳格に守っている上座部仏教のタイなどでは、日本の僧侶というのはおぞましき破戒(はかい)坊主として、そもそも僧侶とは認めていません。ですから、正式な僧侶の地位にある者としては取り扱われず、国王には拝謁(はいえつ)することができません。いわば、俗人が僧侶のコスプレをしているだけと見ているのです。

 つまり、中身は俗人、外見は僧侶という姿なのです。

 これと同じように、自衛隊は、占領憲法が憲法として有効とする限り、国際的には軍隊として認められたいとしていますが、少なくとも国内的には警察隊というヌエのような中途半端な存在のままです。しかし、帝国憲法が現存していると認識すれば、瞬時にして自衛隊は皇軍になります。そして、ネガティブ・リストを遵守した軍事行動が可能となるのです。ですから、真正護憲論と自立再生論は、戦後のすべての矛盾を一掃する「万能理論」なのです。いつになったら実用化して、一体何人の人を助けることができるか全く不明な「万能細胞」よりも、我が祖国と民族を救うことのできる格段に優れた理論として、国家への貢献と国家の再生、さらに世界の再生が可能となるものです。
 ところが、この真正護憲論によらず、占領憲法を憲法として有効だといまだに信じていると、自衛隊は、先ほどの僧侶のコスプレと同じように見られてしまうだけです。

 つまり、中身は警察官、外見は軍人という姿なのです。

 こんなことでよいのでしょうか?
 保守風味の人たちの中には、このような本質論には触れずに、対外的にも国内的にも、私でも驚くような過激な発言をする人が数多く居ます。しかし、そんな人に限って、占領憲法を憲法であるとして認めているのですから、二度びっくりです。ならず者国家であっても屈服し哀願して隷属的(れいぞくてき)平和を求めなさいとする占領憲法を憲法として認める人が、対外的強硬論を唱えるのは、「右翼認知症」というか「右翼統合失調症」を発症している気の毒な人の姿であると言えます。

 しかし、そんな人たちが徘徊してまき散らす言説に騙されることなく、いまの自衛隊員は、国土防衛の士気が高く優秀な能力も持っていることに敬意を表しています。これは帝国陸海軍将兵の士気に近づきつつあります。先の大戦で戦渦に散った多くの防人と一体となって、その精神を受け継いでもらうためにも、自衛官自身がいち早く真正護憲論に目覚めてほしいものです。

 自衛官が真の軍人になるためには、単なる兵器オペレータとしての技能を磨くだけでなく、皇軍将兵としての精神的自覚が不可欠です。自衛官としては、占領憲法の改正論を決して主張してはなりません。それは、武官が国政に関与することになりますし、なによりも軍人精神が汚されるからです。占領憲法は英霊を否定しているからです。英霊を否定する占領憲法を憲法として認めるというような馬鹿げたことをするのではなく、率先して、すべき大事なことがあります。それは、占領憲法の効力論争に挑み、堂々と真正護憲論を主張することです。これをすることは、国政について容喙することにはなりません。自衛官にも学問の自由が保障されているので、堂々と胸を張って効力論争をし、真正護憲論を主張することができるのです。
 これこそが戦塵に散った英霊の魂と一体となれる唯一の道なのです。

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