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千座の置き戸(ちくらのおきど)第三回 交戦権と自衛権-3/4

こちらのブログには 一部に読み仮名をつけ、仮名遣いを変えた文章を載せさせていただいています。
元の文章はこちら 國體護持塾 HP

連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

              第三回 交戦権と自衛権

                    南出喜久治(平成二十六年五月十五日記す)

たたかひを ゆるしあたはぬ いくさびと やたのからすも かかしとまがふ
(戦争を許し能はぬ軍人(交戦権なき自衛隊)八咫の烏も案山子と紛ふ)

 そして、「戦争の放棄」については、「よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。」としているので、「自衛戦争」もしないことを戦争の放棄と説明していたのです。これはポツダム宣言による我が軍の完全武装解除が第9条第2項前段の「戦力の放棄」(戦力不保持)となり、我が軍の無条件降伏が同項後段の「交戦権の否認」となったことであり、これが占領憲法制定の要諦であったことをはっきりと説明していたのです。

 ですから、自衛権が国家固有の権利であるとしても、あえて交戦権を否定したので、自衛権の行使としての自衛戦争はできず、自衛戦争以外の自衛の措置によることになるということになりますが、このことについて、専門家階級集団は決して議論しないのです。

 次に、専門家階級集団の迷走ぶりを示す第二点としては、自衛権が存在することの根拠として持ち出す「国家固有の権能」の本質について全く議論しないことです。

 先ほどの砂川事件最高裁判決では、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」とあり、自衛権の根拠を「国家固有の権能」としているのですが、この「国家固有の権能」というのはどういうものなのか、その本質は何なのかについて、専門家階級集団は、完全に思考停止状態になっています。

 国家固有の権能というのは、自然権という意味でしょうか。もし、そうであれば、自然権の源泉は「自然法」になります。自然法の存在を認めて、それを実定法(占領憲法)の上位規範とするのであれば、その自然法こそが最高規範ということになります。実定法(占領憲法)に規定されていない事項、あるいは否定されている事項であっても、それを肯定できるのは、その上位規範の最高規範として自然法を認めなければなりません。その自然法というのは何なのでしょうか。

 建物の躯体部分である柱の表面に塗料を塗って、柱の素地が見えなくなっても、柱自体がなくなったのではありません。それと同じように、柱(自然法)の上に塗料(実定法)が塗られて内装を仕上げると、柱(自然法)は見えなくなりますが、見えている(実定されている)塗料の表面だけが柱ではありません。塗料は柱に塗られることによって初めて存在するもので、塗料だけでは家(国家、社会)は支えられません。自然法を成文化したのが実定法であり、実定法の存在根拠は自然法なのだとするのが自然法思想です。

 そうすると、占領憲法という塗料が塗られた柱である自然法とは何なのでしょうか。我が国の自然法とは、規範國體という根本規範(最高規範)なのです。規範國體は、古事記、日本書紀に始まり、歴代の詔や近年では教育勅語や帝国憲法までの総体であり、長い時代を経て伝統的に培われた祖国の御柱(おんばしら)のことです。

 ですから、帝国憲法だけが規範國體が構成されているのではなく、規範國體を投影した実定法の一つに過ぎません。その帝国憲法を改正したのが占領憲法とするのですが、規範國體に抵触している占領憲法が帝国憲法の改正法として認められないのは当然です。かと言って、これを絶対的に無効だとすることは、帝国憲法第76条第1項に違反するので、講和条約の限度に有効とするのが真正護憲論です。ですから、真正護憲論というのは、規範國體護持論なのであり、我が国の歴史伝統に裏付けされた王道の国法理論なのです。

 いずれにせよ、我が国における自然法理論とも言うべき真正護憲論でしか、「国家固有の権能」の根拠は説明できません。少なくとも専門家階級集団が、この「国家固有の権能」を根拠として自衛権を肯定するのであれば、真正護憲論か、あるいはこれに代わる国法理論を示さなければなりませんが、それを示すことができず「国家固有の権能」という呪文を唱えるだけで完全に思考停止しています。

 ただ、次のことだけは専門家階級集団でも認めざるを得ないでしょう。それは、「国家固有の権能」があるというのであれば、その権能は占領憲法制定以前に存在する「規範」から導かれる権能であるということです。そうすると、必然的に、占領憲法制定以前に存在する、占領憲法を超える上位の規範を認めることになります。しかし、牽強付会の専門家階級集団は、この点についても「ノーコメント」なのです。

 第三に、専門家階級集団の迷走ぶりを示すものとして、集団的自衛権の議論があります。

 砂川事件最高裁判決は、自衛権について個別的自衛権と集団的自衛権とを区別していないという、突然思いついたような議論を吹っ掛けて、個別的自衛権も集団的自衛権もいずれも「国家固有の権能」とするのです。
 この事件は、日米安保条約に基づいて、米国側が集団的自衛権行使の態様として在日米軍基地の存在を認めたことから、むしろ、米国の集団的自衛権行使による反射的効果を我が国が享有し、このような方法によって我が国が自衛(防衛)することができるか、これも「必要な自衛のための措置」と言えるのかが問われた事件なのです。

 カルタゴが傭兵に頼って自国を防衛しようとし、結果的には滅んでしてしまったのですが、我が国としては占領憲法の制約があるために自らは軍隊を持てないので、基地提供条約である日米安保条約によって米軍をそのまま傭兵的に活用し国内に駐留させて自国防衛を図るという選択肢も「必要な自衛の措置」として認められるのではないか、また、その方法であれば戦力不保持の規定に抵触しないのではないか、という可能性を視野に入れて最高裁は判断しようとしたのです。この判決で田中耕太郎最高裁判所長官が示した補足意見は、集団的自衛権に関する一般的見解を披瀝しただけであって、我が国に集団的自衛権があるといふ見解ではないのに、安倍内閣は、牽強付会(きょうけんふかい)の噴飯(ふんぱん)ものの解釈を展開していますが、そんな顰蹙(ひんしゅく)を買うような綱渡り的な議論をするよりも、正攻法で中央突破し全面展開できる真正護憲論をどうして採用しないのでしょうか。「戦後レジームからの脱却」というのは本心ではなく、やはり羊頭狗肉(ようとうくにく)の政権ではないかと疑わざるをえません。

 ところで、集団的自衛権について言えば、この砂川事件は、米国側からみれば、基地提供をしている我が国に対して他国から武力攻撃があった場合に、米国の持つ集団的自衛権によって我が国を防衛することが許されるかという問題、そして、我が国側からみれば、米軍に基地提供をすることによる傭兵的な方法でも「必要な自衛のための措置」としての我が国個別的自衛権として認められるかという問題を取り扱っているのであって、我が国の集団的自衛権の存否を議論したものではないのです。

 政府は、集団的自衞権について、「国際法上、国家は集団的自衞権すなわち自国と密接な関係にある外国に對する武力攻撃を、自国が直接攻撃をされていないのにもかかわらず、實力をもって阻止する権利を有しているものとされている。わが国が、国際法上このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第九条の下において、許容される自衛権の行使はわが国を防衞するための必要最低限度の範囲にとどめるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」(昭和56年5月29日政府答弁書)としていました。
 要約すると、集団的自衞権は、国連憲章第51条によって認められる権利ですが、占領憲法の制約により、それを行使することができないとすることになります。つまり、占領憲法の解釈として、集団的自衞権は享有すれども行使できないとしていたのです。

 しかし、この解釈は矛盾だらけです。まず、「自国と密接な関係にある外国」とありますが、集団的自衛権の対象となる国の要件が「密接な関係にある外国」という曖昧なものでは定義として成り立ちません。これは、「相互に集団的自衛権を定めた軍事同盟条約締結国」とすべきであり、それでなければ、集団的自衛権は、これまでの国際法上も肯定されず、国連憲章第51条でも国連加盟国になって初めて認められる権利と規定されているのですから、「主権国家である以上当然」に認められるものではないのです。

 このような集団的自衞権が注目されたのは、国際連盟規約(大正8年)の前文の冒頭に、「締約国ハ戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾」するとあり、この義務に違反する国家については、他の全ての連盟加盟国に対して戦争に訴えたとみなし、連盟及び連盟加盟国が戦争を含めた対抗手段をとると規定され(第16条)、集団安全保障体制の原型を示唆したことに始まります。
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