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千座の置き戸(ちくらのおきど)第二回 プレスコードと占領憲法-2/3

南出喜久治(平成二十六年五月一日記す)

てをつかね ひざをかがめて うけいれし あだのてしたを うちてしやめぬ
(手を束ね膝を屈めて受け入れし仇(GHQ)の手下を討ちてし止めぬ)

この協会が定めた新聞倫理綱領の美辞麗句の建て前とは裏腹に、今日までの經緯は、占領期間中のみならず、その後現在に至るまで、これらの検閲と思想的偏向を許容する運用がなされてきた欺瞞と食言の歴史そのものです。その原因は、建て前では「民主主義的新聞社」を標榜しながらも、実質はGHQの反民主的な検閲を無批判に受容し、これについての自己批判すら行わずに、そのまま現在まで報道姿勢を踏襲しているという、致命的な根本矛盾に起因するものです。現在では、一部マスメディアのみが排他的特権を享有する「記者クラブ」という名のギルド社会は、その見返りとして得た利権であり、この利権を維持せんがための反民主的な存在にすぎません。表向きは「民主主義的新聞社」の団体としていながら、その実質は、GHQの検閲とプレスコードを受忍して命を長らえてきた集団です。これが、見せかけの「新聞倫理綱領」なるものを定めて、恰かも「民主主義」の旗手のように振る舞っていますが、GHQなき後も、忠実な番犬として東京裁判史観を堅持して偏向報道を垂れ流しするメディアのギルドとして存在しています。

 このプレスコードの真っ先に掲げられている「1」は、占領政策を進めるについて絶対的に必要な検閲ですが、次の「2」と「3」は、まさに占領政策の要諦です。東京裁判と占領憲法とは、戦勝国である連合国が敗戦国日本を断罪して、再び連合国に反抗する脅威とならないやうに、歴史観と国家基本構造を連合国の都合のよいように塗り替えるためのものです。そして、「4」から「30」までは、それを実現するための具体的な項目として網羅的に列挙されたものです。

 現在、メディアに露出してギャラを稼ぐ保守風味の学者やタレントなどの言論人(電波芸者)が、プレスコードの「4」ないし「30」についての検閲から解き放たれたような素振りをして、さかんに言論活動をしています。ヘイトスピーチ同様の口調によって「反○○」という憎悪を煽り、賛成か反対かという二分法のデジタル思考を好む単細胞的な大衆に対して、このような二項対立的な単純図式で争点を矮小化させる電波芸者たちとこれらを持ち上げる太鼓持ちたちがメディアにおいて幅を利かすのです。

 ですから、電波芸者たちは、プレスコードによる占領政策の要諦となっている「1」ないし「3」については、あまり批判したり詳しく分析、論評することはしません。電波芸者の大半は、単細胞的な論述を好む大衆に単純かつ歯切れのよい著作物を売りつける売文業者ですから、この1ないし3は総論的な事項であるため、これらに関する著作物は少し高度な内容となるため大衆向けとしては売れないことを知っているからです。
 ですから、「1」ないし「3」については、刺身の具として、簡単に述べるだけで、その著述の大半は、受け狙ひの「検閲批判」に集中させたり、これら検閲の後遺症である領土問題、靖国問題、慰安婦問題、教科書問題などに反発する大衆のフラストレーションのはけ口のための著作物を発行したり論述したりします。これでは、「モグラ叩き」ゲームに過ぎず、占領政策を全体を総括するにおいて、木を見て森を見ずということになっています。

 このような保守風味の電波芸者たちのこれまでの言説を全体的に観察してみると、次の性癖が見て取れます。まず、保守風味だというのは、伝統保守の立場とは似て非なるものということです。そして、これらの電波芸者たちの本心は、なんと「戦後レジームからの脱却」を決して望んではいないということです。羊頭狗肉の類ひです。
 プレスコード「1」ないし「3」を本格的に批判すれば、必然的に東京裁判や占領憲法を全否定することになります。そうすると、その後は売文業者の営業が続かないのです。「それを言っちゃお終いだ」ということです。国民に、内憂外患のフラストレーションを一時しのぎで鬱憤を晴らせる「モグラ叩き」ゲーム機を世間に普及させることにしか関心がありません。電波芸者たちは、私が「臭い臭いは元から絶たなきゃダメ」と言っても、聞く耳を持ちません。そのために、いまでは、国の内外に、強烈な悪臭が漂い、一度に多くのモグラが出てきて、収拾が着きません。この事態は、電波芸者たちにとってはメディア露出が多くなり、営業的には極めて好ましいのです。

 電波芸者とそれを持ち上げる保守風味の太鼓持ちたちは、国家再生のための根本解決を断念するどころか、根本解決を提唱する者を葬り去ろうとして、その言説までもデマなどと言いふらして妨害します。そうすることが敗戦利得者の利権を守ることになるからです。敗戦利得とは、占領憲法を憲法として容認することによって得られるすべての利権のことです。占領憲法が憲法でなくなれば、これにイチャモンを付けてマッチポンプの活動をするための飯の種がなくなってしまいます。
 だから、電波芸者たちは、真正護憲論を揶揄するだけで、誰もそれに代わる憲法学的、国法学的、政治学的な代案を示さず、国家百年の大計を語りません。否、語れないのです。反対のための反対。昔の社会党と同じです。

 少しでも長く敗戦利権を貪るためには、占領憲法が少しでも憲法として長く生き延びてもらわなければならず、多くの人がその誤りに気づき、大嘘がばれてしまうと、敗戦利得者は生きて行けなくなるからです。これは「切れない電球」を製造販売する商売人とよく似ています。
 半永久的に「切れない電球」を製造することは技術的に可能ですが、このような製品を製造販売すると、これが全域に行き渡って飽和状態になれば、それ以上販売できなくなるので、わざと「切れる電球」を製造販売するのと同じように、占領政策の要諦を全部否定すると、それ以上の言説は不要となります。ですから、申し訳程度に占領政策の要諦の一部だけを否定したり批判したりし、その否定や批判の程度を少しづつ高めて行くことによって、売文活動が長期に亘って続けられることになるという営業戦略を採るのです。
 だからこそ、東京裁判と占領憲法の双方を全否定することはしません。してしまえば飯の種を失うからです。

 最近では、東京裁判について、裁判としては無効であるとの言説も見られるやうになりましたが、多くの論調は、平和に対する罪や人道に対する罪が事後法で違法であるとか、裁判所の構成や審理の方法が不公正であるとか、南京大虐殺なるものはなかったとかの主張をするだけで、東京裁判が「裁判」としては無効であるというような全否定には及んでいないのです。

 ましてや、占領憲法については、全否定することなどは売文業者からすれば命取りとなるので御法度なのです。しかし、営業的には、占領憲法を「押しつけ憲法」などと批判しなければ保守風味の人たちの共感を得ることができません。ですから、少しはそんなポーズを採って占領憲法改正論を唱えるのですが、占領憲法を根本的に否定することはできません。

注*本文は塾HPに掲載されているものをブログ用に仮名遣いを変え、一部読み仮名を付けています。
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テーマ : これからの日本
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