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おさなここち 『中江藤樹』 -2/2



おさなここち(幼心地)その十二 中江藤樹

南出喜久治
平成23年2月6日記す

そして、熱心にそのことを説明して殿様に暇乞いしますが、殿様はどうしても許してくれません。このころは、嘘の理由を言って暇乞いをした後、別の殿様のところに仕官する狡い人もいたことから、暇乞いを許さなかった理由としては、自分の藩の大事な情報が次の仕官先の藩に漏れることの警戒もあったと思います。ですから、藤樹は、決して別の藩に仕官するためでなく、暇乞いの理由に偽りはないことを誠心誠意誓って願い出たのです。それでも許されなかったことから、ついに死を決して脱藩するのです。

 脱藩して死罪になれば、母の孝養はできません。しかし、このままであればそれ以上に絶対に母の孝養はできません。「至誠天に通ず」(まごころを以て事に当たれば困難なことでも理解が得られることがある)との信念で、脱藩しても死罪を免れる道が万が一でも切り開けることに賭けたのです。脱藩してからは、京(京都)を通って琵琶湖の湖畔を進んで小川村に入って母に会い、そのことを報告しました。しかし、もし、小川村に追っ手が来て、母の前で打ち首にでもなれば、これ以上の不孝はありません。そこで、京まで戻り、そこで、藩に自分が京に居ることを知らせて、追っ手が来るのを待ちました。死罪となるのであれば、その死に場所を京に決めたのです。ところが、殿様は藤樹のまごころを認めて、追っ手を差し向けませんでした。そして、藤樹は、晴れて小川村に帰ったのです。ついに至誠(まごころ)が天に通じたのです。

 その後、郷里で母に仕えながら学問と村人らの教育に励み、生涯を通じて師匠(先生)に従って学問の教えを受けることがなく、独特の学問を築き上げました。学問を築きあげたというよりも、清貧の中で、一切の名利(名声と利益)を求めず、ひたすら独学で人の道を求め続けた一生なのです。
 居宅に古くて大きな藤の樹があったことから「藤樹先生」と呼ばれて親しまれ、亡くなってからはその遺徳をたたえられて「近江聖人」(おうみせいじん)と呼ばれるようになりました。代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山などがいますし、大塩平八郎や吉田松陰などにも影響を与えた人です。

 この藤樹の思想については、日本陽明学の祖だとか、いや、陽明学とも異なる独自の藤樹学を打ち立てたのだという学問的な論争がなされていますが、そんなことは藤樹が脱藩してからの学問的な業績についての評価であって、藤樹の本当のすばらしさからすると、こんなことは「おまけ」のようなものに過ぎません。藤樹の本当の人間としての値打ちは、母親の孝養のために決死の覚悟で脱藩したことにあります。

 こんなすばらしい人がこれまで世界に居たでしょうか。たとえば、シャカ、キリスト、マザーテレサ、それに野口英世など、世界や日本の聖人とか、君子とか、偉人とか、あるいは教祖と呼ばれる人の多くは、出家とか修道とか学問専心という言い訳で、親を捨て家族を捨て、あるいは親に孝養を尽くさずに、それなりに立派な成果や功績を残したのですが、成果や功績を上げれば親や家族を捨ててもよいというような、成果を第一とする人物評価には何かむなしいものがあります。人の生き方を成果だけで評価する成果第一主義に陥ってはなりません。藤樹は、孝養を人生における最も大切な務めとして、それを命がけで実践した人であり、しかも、他の聖人君子などに勝とも劣らない数多くの成果を残しているのです。孝養と成果とを命がけで両立させた人なのです。

 ですから、なんと言っても、中江藤樹は、我が国が世界に誇れる第一級の人物なのです。そのことの誇りと喜びを確認するためにも、是非一度、滋賀県高島市にある藤樹神社や近江聖人中江藤樹記念館へ家族一緒に訪れてみてください。理屈や理論ではなく、きっと何か心で感じとることあるはずです。
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