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おさなここち 『中江藤樹』 -1/2

おさなここち(幼心地)その十二 中江藤樹
南出喜久治
平成23年2月6日記す

 皆さんは、江戸時代前期に生きた中江藤樹(なかえとうじゅ)という人の名前を聞いたことがありますか。

 中江藤樹は、慶長13年(1608+660)、近江国(おうみのくに・今の滋賀県)小川村(現在の高島市安曇川町上小川)に生まれ、9歳で伯耆国(ほうきのくに・現在の鳥取県)米子の加藤貞泰の家臣であったお祖父さんの中江吉長の養子となり、その後、藩主(殿様)の転封(国替え)に従って伊予国(いよのくに・現在の愛媛県)大洲に移住します。
 15歳でお祖父さんが亡くなった後は、禄高100石(玄米100石の俸禄)を貰って家督を継ぎ殿様に仕えることになります。

 当時は、武士の俸禄(1年分の給与)はお金ではなく玄米で現物支給されていました。1石(こく)は10斗(と)、1斗は10升(しょう)、1升は10合(ごう)ですから、100石というのは10万合になります。100石の米の量というのは、縦1メートル、横1メートル、高さ1メートルの入れ物の18杯分の米の量ですから、ずいぶん多い量です。現代では米のご飯を食べる量が減りましたが、当時は一人平均で1日2合半程度でしたから、約110人を一年間養えるほどの分量です。

 1万石以上の武士のことを大名と言って多くの家臣を抱えていた時代ですから、藤樹は相当の高給取りの身分でした。しかし、27歳の時、郷里(小川村)で一人住まいしている年老いた母への孝養を尽くしたいことから、自分の身体の健康を優れないことも理由に、俸禄を捨て武士を捨てて殿様に仕えることを止めること(辞職)を熱心に願い出ましたが、殿様は許してくれませんでした。そこで、やむにやまれない気持ちで、殿様の許しを得ずに脱藩して郷里の小川村へ帰ります。

 脱藩というのは、自分が仕えて俸禄を貰っていた殿様の恩義を裏切る行為であり、その罪は武士としては一番重いものです。今で言うと、刑務所からの脱走や密出国の程度を遙かに超えた想像を絶する重い犯罪で、原則として死罪でした。死罪というのは、武士として切腹して死ぬことが許されないものです。切腹は武士としての名誉を認める場合のもので、脱藩というのは一番破廉恥な罪の一つで、そもそも武士を捨てたのですから、名誉ある武士に認められる切腹ではなく、追っ手を差し向けて脱藩者を探し出し、打ち首あるいは抵抗すれば斬り殺されるのです。

 脱藩といえば、吉田松陰とか坂本龍馬のように、幕末のころに勤皇の志士が脱藩したことがよく知られています。幕末のころの脱藩でも建前上は死罪でしたが、このような尊皇運動のための脱藩(尊皇脱藩)については幕末時における藩の統制の甘さもあって事実上黙認されていたのとは違って、藤樹のころの脱藩(孝養脱藩)は、江戸時代の初めのことで、厳格に処断されていた頃なのです。

 藤樹は、脱藩するまで、殿様の許しを得て、母の見舞いのために何度も帰省しています。そして、その母の様子を自分の目で確かめた結果、早く暇乞い(仕官を辞退すること)して母のもとに帰って孝養を尽くすことの決意を固めます。初めは、母に伊予国の大洲で一緒に暮らしてほしいと説得するのですが、年老いてから住み慣れた村を離れて遠くの見知らぬところで暮らすことができないとの母の不安な気持ちを理解します。母もまた、自分のことは心配せずに、殿様への奉公に励めと藤樹を諭します。
 しかし、藤樹は、どんなに立派なことを語ったり教えたり、そして立派な功績を残したとしても、自分の命を御先祖様から受け継いでいただいた父母に孝養を尽くさないのは、人として最も大事なことが欠けていることだと悟ります。父を亡くした今となっては、孝養を尽くせるのは母しかいないのです。
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