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祭祀の道 第六十回 家産と貨幣経済(その六)-2/2

昨日に続いて 祭祀の道 第六十回 家産と貨幣経済(その六) を掲載いたします。
こちらには 一部読み仮名を付け、仮名遣いを慣れている物に変更しております。


 ところで、この原稿を書いている最中に、ビットコインの世界最大級の取引所の一つである「マウントゴックス」(東京)のサイト上に「全ての取引を当面停止する」との声明が2月26日までに掲示されたとのニュースが報じられました。そして、これに対応して、世界のビットコイン取引所など6社が同日までに出した共同声明によると、「マウントゴックスは利用者の信頼を裏切ったが、これは1社の問題」であると強調していますが、この現象は、確実に通貨信仰の崩壊を招くことになるでしょう。

 ビットコインで濡れ手で粟を掴んだ人々は、株式その他の債券又は金融派生商品で大儲けした人と性根は同じであり、いずれも賭博経済の勝ち組です。このような賭博経済がまかり通る世界では、生産労働と収益との均衡、労働価値と通貨量との均衡、通貨発行権の本質と限界について、誰も本気で耳を傾けることはありません。

 マルクスが描いた共産主義という設計社会の実験は完全に破綻しましたが、労働価値説というのは、ある一面において正しい方向を示唆していました。それは、価値の創造とは人間の営みによるもので、それには一定の限界があり、打ち出の小槌を振って際限なく安易に価値が造られることはないという視点でした。マルクスは、通貨は宗教のようなものだと言うようなことを言っていたのです。もし、その視点を得体の知れない「通貨」の価値の創造という点に向けられていれば、通貨の本質を解明することができる可能性があったのですが、それが全くできなかったのです。
 つまり、通貨が富の蓄積と偏在を生み格差を広げる元凶であるとしたのであれば、通貨発行権の本質と帰属について考察しなければならないのに、それが最後までできなかったのです。

 そして、レーニンは、マルクスの思想を忠実に実行して一旦は通貨を廃止したのですが、マルクスと同様に通貨発行権の本質を理解できなかった為に、1年足らずで通貨を復活せざるをえませんでした。その原因が何であるかを探求すれば、マルクス主義の否定に至ったはずですが、それをしないまま見せかけの革命を追行して巨大権力を暴走させたことから、その後に人類史上特筆すべき凄惨な虐殺の悲劇を生むことになりました。

 虐殺と言えば、毛沢東やスターリンが思い出されますが、カンボジアのクメール・ルージュ(ポル・ポト派)も忘れることができません。ポル・ポトは、毛沢東の残虐さの足下に及ばないとしても、毛沢東思想を熱烈に信奉し、対ベトナム自立と武装闘争路線に傾斜したため、不信の連鎖によっておびただしい数の国民の生命を奪ったことは、いかなる意味においても肯定できるものではありません。

 しかし、ポル・ポトが掲げた政策を冷静に分析したとき、現代社会の経済制度に問いかける反面教師の役割を果たしたものと理解することができます。これによって、現代の経済制度や通貨制度の病巣があぶり出されてくるのです。
 昔も今もカンボジアは農業国ですが、ポル・ポトは徹底した農本主義的な共産主義を唱え、「反都市」、「反貨幣経済」、「反知識人」の路線を掲げました。もちろん、共産主義ですから、家族制度の解体を標榜(ひょうぼう)したため、多くの国民には到底受け入れがたいものでした。

 ポル・ポト派は貨幣経済を否定し、通貨の流通を停止して銀行を解体させ、食料生産を担う農村の共同体を国家の基本に据えて、食料生産力を持たずに消費するだけの都市住民や食料生産者を見下して生産に貢献しない知識人は、農村を収奪して疲弊させる「寄生虫」とみなして強制的に帰農させたのです。そして、これに逆らう者には悉(ことごと)く死を与えたのでした。

 このうち、「反都市」と「反知識人」というのは、五・一五事件で最高刑の無期懲役に処せられた橘孝三郎の思想と形式的には近似しますが、明らかに似て非なるものです。ポル・ポト派は、「家族」を解体し、個人主義や合理主義による根無し草の村落共同体を夢想したために、このような村落共同体というのは長続きしませんでした。ポル・ポト派の失敗は、家族を単位共同体の構成要素としない抽象的な村落共同体というものが成り立たないことを証明したのです。ポル・ポトと橘孝三郎との決定的な違いは、拙稿『同工異曲の原発問題と安保問題』を参照してみてください。

 また、「反貨幣経済」というのは、レーニンの当初の路線を引き継いだものですが、ここには、やはり、通貨に絶対的な価値を認めないという考えが根強く横たわっています。通貨といふものは、バーチャル(仮想的、虚像的)なものであることを直感で理解していたのです。

 現在の通貨制度に疑念も持ち、その根本を否定して改めようとする考えに対しては、とんでもないことだと言って語気荒く批判する人や、一笑に付してこれを無視する人が殆どです。しかし、その人たちの判断は、自分の頭で世の中のことを真剣に考えたものではないはずです。人の受け売りか、「常識」という名の「思考停止」の産物なのです。

 これまで、6回に亘って『家産と貨幣経済』で、通貨の本質、とりわけ通貨発行権の本質についての理論経済学的考察をしてきましたので、拙稿の読者なら、現在の通貨制度が極めて危ふいものであることを感じているはずです。
 そのようには感じないのは、賭博経済に心身ともに委ねている人ですから無駄でしょうが、もし、そのように少しでも感じられたのであれば、是非とも拙稿の『國體護持総論』第六章の「増補版」を通読されることをお勧めして、この稿を了することとします。
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