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祭祀の道 第五十九回 家産と貨幣経済(その五)-2/2

昨日に続き 祭祀の道 第2回目を転載させていただきます。
原文はこちら

仮名遣いを変更しています。

かぶかはせ かかはりのない くらしにも おほひかぶさる だきつきおばけ

(株(株式、債券)為替(国際為替)関はりのない暮らし(社会生活)にも覆ひかぶさる抱き付きお化け)


 さて、話を元に戻しますが、これまで述べたとおり、国家の経済的自立を実現するためには、財政と金融とが一体(財金一体)として運営されることが必要です。経済的自立は、財政の自己決定権である「財政権」と金融の自己決定権である「金融権」が確保されていることです。
 ところが、アメリカでは、FRBによって、国家の金融権が奪はれ、財政権のみとなって、そのアメリカ方式に日本その他多くの国で採用され、この金融制度こそが世界基準であるかのごとく喧伝され、「財政と金融の分離(財金分離)原則」が当たり前のようになり、これに疑問を挟むことができなくなるほど、世界的な思考停止状態となりました。財政権だけしかなく、金融権のないのは偏頗な片肺呼吸です。財政権と金融権の双方が飛行機の両翼となっているからこそ、国家は統治飛行を続けられるのです。この異常さに気付かずに、むしろ、片肺呼吸、片翼飛行の方がよいのだということを信じ込まされています。洗脳とは本当に恐ろしいものです。金融権を国家から何らの対価を支払わずに奪い取ること、これこそが、祭祀の道第五十七回『家産と貨幣経済(その三)』で述べたとおり、シニョリッジ(通貨発行益)を独占できる通貨発行権を国家から簒奪(さんだつ)したことは、FRBとその走狗たちが得た世界最大のレントシーキング(rent-seeking)なのです。
 本来独立国であったEU加盟各国から通貨発行権を無償にて剥奪し、欧州中央銀行(ECB)これを附与したことも、近年では最大規模のレントシーキングだったのです。

 やはり、財金一体が原則でなければ、独立国家における政治を全うすることができません。「財金分離」が正しいものであるとする呪文から解き放たれて、財政と金融を一体とした「責任政治」を行う必要があります。政府と日本銀行(日銀)とは別であり、日銀の自治と独立性が大事であるということは、無責任にもほどがあります。財金分離であれば、日銀がジャブジャブと日本銀行券を発行して政府から引き受けた国債の債権を全部放棄して政府の債務をすべて帳消しにし、その結果、日銀が債務超過になったことを理由に、日銀だけを破産させて、借金まみれになった政府の財政をリセットして涼しい顔ができるという、超ウルトラCと言うか、スーパーEの芸当が、少しばかり法律を改正するだけで可能になります。そんな無責任なことができる可能性があること自体が政治不信を増大させ権力の正当性を否定することになるのです。政府の借金は国家の借金であるという厳粛な認識が必要ですし、日銀を国家の100%子会社にして日銀を政府が吸収合併し、政治家や官僚も政策の誤りによって被った国家の損害に対して連帯責任を負う覚悟がなければ、国家の財政と金融は再生できません。

 前回(『家産と貨幣経済(その四)』)でも述べましたが、通貨発行権の源泉は、個人にあり、それを政府に寄託したものにすぎません。ところが、その趣旨に反して、政府に寄託した通貨発行権が政府とは別の機関である「中央銀行」に委ねられました。私企業である金融資本がレントシーキングによって簒奪したものです。ですから、多くの国の中央銀行というのは「国立銀行(国家機関)」ではありません。
 殆どの国は、FRBの手下となって国家機関ではない「中央銀行」を作らせて、私企業の金貸し屋の経営になりました。このような中央銀行制度がない国は、世界には殆どなく、北朝鮮、イラン、スーダン、キューバ、リビアだけになりました。以前は、アフガニスタンとイラクも中央銀行制度がなかったのですが、アメリカの圧力によって中央銀行制度を導入することになりました。アメリカとその手先は、これらの国を「ならず者国家」と言いますが、仮にこの言葉が政治的には通用しても、金融権を維持して国家の経済的独立性を図る観点からすれば、金融権を奪われながら金融権を奪われていない他国を「ならず者国家」呼ばわりして罵ってきたアメリカとその手先になつた国家こそが、ならず者の金融資本集団に隷属し続けてきた「意気地なし国家」なのです。

 そして、金融資本集団の餌食となって、財金分離を行い、株式、社債、債券などやこれから派生した金融商品(デリバティブ)は勿論、通貨それ自体まで、実体経済である貿易決済とは全く関係のない形で「博奕」の手段にし、「取引所」と称する「博奕場」で博奕をし続けています。その結果、このような賭博経済とは何の関係もなく、汗水たらして真面目な生活する人々に悪い影響を与えて迷惑をかけ続けているのです。博奕は御法度とされているはずなのに、金融資本集団に隷属した政府は、この最大の博奕を全面的に奨励し、マスメディアも天気予報と同じような調子で、博奕の相場価格を毎日毎日報道し、博奕を奨励しているのです。

 株価(かぶか)が上がったり下がったりするよりも、蕪(かぶら)の値段である蕪価(かぶか)が上がったり下がったりする方が、実体経済や人々の暮らしにとって重要なはずです。博奕打ちが大きな顔をして「ケーザイ、ケーザイ」と叫ぶような賭博経済に支配された世界が行き着くところは「破綻」しかないのです。
 ですから、我々は貨幣経済や通貨制度なとの根本から糺した経世済民の原点に立ち戻る必要があります。その基軸となるのが、やはり「祭祀」なのです。
(つづく)

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テーマ : これからの日本
ジャンル : 政治・経済

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