『崩壊した竹田恒泰氏の真正護憲論批判(1)』-1" />

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青少年のための連載講座 祭祀の道55-2/2

青少年のための連載講座) 祭祀の道55

昨日に引き続き 祭祀の道55を掲載いたします。

かてともの おかみがつくり ださずして うちでのこづち ふるふはなどて(食料と商品政府が作り出さずして打出の小槌(通貨発行権)振るふ(行使する)のは何どて)

この話は、正直者が悲運に見舞はれ、怠け者が幸運に恵まれるといふ理不尽さが、戦争によってもたらされたという物語として語られてきましたが、果たしてそうでしょうか。通貨の幻想を信じた正直者の兄が悲運に見舞われたのであり、ビール瓶を本能的に資源としてため込んだ弟が幸運に恵まれるのは当然なのです。この弟が、大量生産、大量消費の社会の染まり、ビール瓶を廃棄物としてその都度廃棄していたとすれば、兄も弟も、幻想に浸った二人として、同じように貧困に喘いだという物語になってしまうのです。

 つまり、この物語は、ビール瓶は物資として、使用価値も交換価値も備えたものであり、通貨にはそれがないことの教訓として見直さなければならないと思います。ただし、大金持ちになった弟は、その後は通貨の幻想の中にどっぷりと身を委ねることとなり、最後は兄弟二人とも通貨の幻想の虜となってしまったことを忘れてはなりません。

 いざとなれば、物資が通貨の役割をするのです。これを商品通貨と言います。つまり、使用価値と交換価値とを共に備えた物資が本来の通貨の持つ機能を復活させるのです。

 江戸時代では、金属通貨もありましたが、全国経済において主要な商品通貨となったのは「米」でした。ですから、飢饉などのときは、「米」が通貨から食料物資に自然と転換できたのです。そして、その備えとして、「囲い米」(囲い籾)というのがありました。
 初めに行ったのは、八代将軍徳川吉宗による享保の改革のときで、このときは、米価調節策として行われました。どうしてかというと、吉宗は紀州藩での財政再建の手腕を見込まれて将軍職に就き、質素倹約を奨励し、天領(幕府直轄地)で米を増産させ、当初の400万石から450万石まで増産させたのです。
 これが全て流通米として流れると米価が下落し、幕府の財政に支障が出ます。そこで、流通米と備蓄米とに分けて、出荷調整を図って米価の下落を防ぎました。
 しかし、米価調整の目的として囲い米を行っただけで、このときは、備荒(びこう/凶作、飢饉、災害に備えること)のためではなく、ましてや、加藤清正の行った籾米備蓄のような軍事上の籠城目的でもありません。
 そのために、吉宗の行った投機目的の備蓄では、何時までも備蓄しない短期備蓄なので、値段が高騰すればすぐに放出することになります。そのために、吉宗が享保の改革を行った後に起こった享保の大飢饉のときには無力でした。先ほどの、百両の小判を首からぶら下げて餓死した商人の話が出てくる、あの享保の大飢饉です。そして、このような飢饉を繰り返すごとに、備荒貯蓄(備蓄)が行われるようになり、その後、諸藩や郷村でも行われることとなって、寛政の改革(松平定信)のときにこれが本格化しました。当然のことながら、この囲い米は籾米であり、だから、囲い籾とも呼ばれたのです。

 また、米に関しては、我が国が行った朝鮮半島における米作奨励政策によって、外地米が内地に大量に流入し、そのために内地米の価格を暴落させて米処の東北地方の農家が困窮して娘を女衒(ぜげん)に売らなければならない悲劇が起こり、そのことが昭和初期の二・二六事件の背景となったという歴史的事実があります。

 このように、歴史を学ぶというのは、知識を得て歴史オタクになるのではなく、智恵を得て現代に活用するためにあります。「歴史を学ぶ」のではなく、「歴史に学ぶ」のです。これらのことを学べば、現代における農業政策、特に米政策は自ずと見えてくるはずです。

 つまり、これまでの減反政策を廃止し、増反政策へと方向転換することです。そして、備蓄米と流通米とを区分し、消費量に見合った流通米量の出荷調整を行えば、米価は安定します。そして、その余りの米はすべて籾米のまま備蓄米とします。農家は、増反により補助金なして生活できることになり、農村に人が戻ってきます。寛政の改革のときになされたような、旧里帰農令(人返し令)のような無理矢理の法律を作らなくても、農村には人が集まって活性化し、稲穂を戴いて天孫降臨する神話を持つ祭祀の民が復活することになるのです。

(つづく)
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