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祭祀の道 第五十五回 家産と貨幣経済(その一)-2/2

昨日に続いて (青少年のための連載講座) 祭祀の道 第五十五回 家産と貨幣経済(その一)
後半を貼らせていただきます。


 他所にある他の部族の村落の家族から嫁を貰い、さらには、自分の部族から他所にある他の部族の家族に嫁を出すことにより、他の部族を取り込んで同じ部族として拡大し、その拡大された部族全体として自給自足の自己完結生活を営んできたのです。これは、國體護持総論第一章『くにからのみち』で述べたとおり、ストロースの言う「女性の交換」による部族の拡大なのです。

 このように、他の部族を同じ部族として取り込むというのは、「血縁」という信頼があるためです。血縁による信頼とは、共通の祖先が存在するという安心感であり、祭祀を共にするという連帯感です。この安心感と連帯感は、文書による約束事というようなものでは得られないものです。文書での約束というのは、相手を信頼できないから行うものです。つまり、不信の裏返しが文書化の本質です。夫婦や親子といった血縁的な間柄では、文書による約束というのは矛盾したものなのです。

 血縁という信頼関係の中では、部族内での「分担」によって得られる財物を「贈答的交換」によって実現してきました。ある家族が、その特技を生かして作った物を、それを必要とし、それを求めている家族に与えます。そのときに、与えられた家族が与えた家族の必要とする物を持っていれば、物々交換することになりますが、交換する物がなければ、それを有り難く頂戴するだけです。物々交換は、交換する相互の物が同時に存在することが条件となります。季節的な時差があれば成り立たないのです。しかし、直ぐに見返りがないからと言って、物を与えないのではありません。必要としてくれる家族が喜んでくれることを幸せと感じるので、すぐにその見返りを求めません。いつかまた見返りがあるだろうとの信用によるものです。

 本能原理からしても、与えられた家族は、いつか与えてくれた家族に、御礼がしたいと思ひます。そして、何とかして、与えてくれた家族が求めている物を作ってお返ししようと思い、それを作るのです。そして、それを与えてくれた家族に与えます。これは感謝の気持ち、御礼の気持ちですから、直ぐには見返りを求めません。このようにして、お互いに満足し合いのです。これが「贈答的交換」といふものです。

 この慣習は今も続いています。それは、季節的には、お中元やお歳暮があり、それ以外にも不定期に行われます。親しい者同士が、お互いに相手が好む物を贈り合ふのです。決して相互に送った物を物々交換している気持ちではないのです。気に掛けてわざわざ戴いた心が嬉しくて、そのお返しをしたいという心によるものです。ところが、現在では、儀礼的、形式的になって、社会現象としては、望みもしない物々交換となってしまっていることは寂しい限りです。

 このように、信頼関係が儀礼的なものとなり希薄になって行き、同族の部族の数が多くなって、血縁関係の濃淡が激しくなってくると、血縁の有無やその濃淡を直ぐに判断することが出来なくなります。
 そうすると、血縁に代はる信頼の根拠を求めるようになるのは必然的なことです。

 そうして、血縁に代わる「信頼」の根拠が生まれることによって、これまでの同一部族という自己完結的な「共同社会」(ゲマインシャフト)が崩壊して行くのです。そして、その限りない延長線上に現代社会があるということです。「血縁」による贈答的交換を支える「信頼」は、「財貨」という誰も否定できない「物の価値」に置き換えられ、「共同社会」は「利益社会」(ゲゼルシャフト)へと変質するのです。「血縁」による信頼から「財貨」そのものの信頼へと変質するのです。

 思うに、「生産効率」を上げることは、人の暮らしと営みを向上させることは間違いありません。しかし、そのことが人の暮らしにとって至上の価値があるのでしょうか。確かに、同じ作業をするのに効率がよい方法と悪い方法とが選択できるとしたら、効率のよい方法を選ぶのは当然です。しかし、それは「分業」とか「分担」というものに限りません。自己完結型の自給自足社会において、効率を高める方法には、それぞれの人が「熟練」することによって達成するのです。
 人には得手不得手がありますので、効率を高めるには、物を作り、育て、使ふそれぞれの作業に得意な人が受け持つて、その人によってさらに熟練することが必要になります。すると、当然に、作業の「分担」が生まれます。祭祀の道第三十一回『五穀と護国』で述べましたが、部民制がその原型となります。

 では、この「分担」と現代における「分業」とどう違うのでしょうか。これには、決定的な違いがあります。それは、「分担」は、血縁を根拠とした部族共同社会の「維持」に向けられたものですが、「分業」は、部族共同社会の「解体」に向けられたものであるという点です。

 「分担」は、必ずしも効率的ではありません。なぜならば、分担する人も自己完結的な共同社会における自給自足の生活を自ら営む人だからです。これに対し、「分業」とは、自給自足生活を放棄して共同社会を崩壊させ、利益社会に移住して、その住人になってしまうことなのです。

 自己完結的な自給自足によって物を作るという営みは、人の営みにおいて最も神聖なものであり、祭祀そのものであったのですが、いつの間にか、生産至上主義による「分業」という思想によって、祭祀共同社会を悉く崩壊させて、利益社会へと変質させ現代に至っています。

 その分業体制による「信頼」の根拠は、「通貨」という、強制通用力のある貨幣に物の価値と同じ価値があるという幻想なのであると言う事について、次回以降に詳しく説明したいと思ひます。
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