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祭祀の道第51回 祭祀の民

毎月1日にHPに掲載しています。祭祀の道第51回です。

こちらのブログには仮名遣いを少し変えたもの、読み仮名を振ったものを掲載しております。
元の文章はこちら 祭祀の道



(青少年のための連載講座) 祭祀の道

           第五十一回 祭祀の民

                    南出喜久治
                    平成二十五年六月一日記す

おぞましや いはひまつりの ならひすて ゆにはをくだく あまつつみびと
(おぞましや祭祀の慣ひ捨て齋庭を砕く天津罪人)

 「祭祀の道」第二十六回(家産と自給自足)や第四十回(祭祀の構造)でも述べましたが、フランスのパリにあるセーヌ川の中洲(シテ島)は、ケルト人の部族であるパリジーの中心集落で、ここには祭祀の重要な場所でした。これがパリの名前の語源です。ローマ人がここを侵略し、ケルト人を皆殺しにしましたので、今ではケルト文化の欠片(かけがえ)もない所となり、侵略者の象徴ともいうべきノートルダム大聖堂などが聳え立っているのは誠に皮肉なことです。
 祭祀の場を壊す行為は天津罪(あまつつみ)という大罪です。これに罪の意識を抱かずに平気でできるのがキリスト教(ペテロ・パウロ教)を中心とする合理主義、個人主義の考えです。

 「信言不美」(シンゲンビならず)という老子の言葉があります。信用できる誠実な言葉は飾らないので美しくないという意味です。これは「巧言令色、鮮(すくなし)仁」という論語の学而の言葉と同じ意味の言葉です。
 「合理主義」、「個人主義」、「宗教」、「国民主権」という言葉は、信言でもなく巧言令色(言葉を巧みに操って人の気を逸らさないように表面を取り繕うこと)の言葉です。これはポピュリズムの常套手段です。ですから、「本能」、「家族」、「祭祀」、「國體」という「信言」は美しくないのです。厳密に言えば、民度の低い人達には美しく聞こえたり、美しく響かないのです。
 つまり、これほどまでに人類は劣化してきたということです。

 世界には、仏教の末法思想のような衰滅史観、それに、賽の河原の石積みのように革命を繰り返してグルグルと権力者が入れ替わる支那の循環史観もありますが、一番厄介なのは、ヘーゲルやスペンサーのように、世界は何事においても進歩するのだという無邪気な進歩史観です。つまり、祭祀を否定することが進歩であるとする愚かな歴史観であるために、世界は益々混迷を極めています。混迷を極めることも進歩だと強弁しなければならないのが、進歩史観の致命的な矛盾なのです。

 世界の人類の初めは、すべてが「祭祀の民」でした。祭祀の民とは、結論を言えば「日本人」(世界人)のことです。日本(日の本)は、世界の雛形ですから、人種、民族、言語がその後に分化しても、祭祀の民である限りは、日本人(世界人)なのです。
 ところが、祭祀を否定する宗教や合理主義などが蔓延って(はびこって)、祭祀の民である日本人から、祭祀を否定する非日本人へと堕落したのです。

 ところで、祭祀を本質的には全否定するキリスト教(ペテロ・パウロ教)や阿弥陀如来信仰などの一神教(一仏教)というのは、二つの意味があります。

 一つは、崇める絶対的な唯一の神仏以外には神仏はなく、これと相容れない習俗は、「迷信」だとか、「魔術」であるとして排斥します。ですから、「祭祀」は魔術として忌み嫌われ排斥される対象だったのです。キリスト教の教会は、すべての多神教だけではなく、アブラハムの宗教の仲間であるユダヤ教やイスラム教についても、その一切の習俗を「魔術」とか「カルト」であると排斥したのです。「魔女狩り」というのは、「祭祀狩り」でもありました。

 その意味では、「科学」も「カルト」でした。経済学者のケインズは、万有引力の法則で有名なニュートンのことを「最後の魔術師」と呼びました。どうしてかと言うと、ニュートンの研究対象は、神学研究であり魔術研究であって、その研究の成果して万有引力の法則を唱えたからです。「重力」なるものは目に見えるものではありません。目に見えないものを操るのは、キリスト教からすれば、「魔術」であり「カルト」なのです。
 ですから、絶対神(仏)と人とし隔絶しているものであって、その間を連続的に繋ぐとする「祭祀」という目に見えないものは魔術でありカルトであるとして排斥することになります。家族や祖先との紐帯を否定し、個人個人として絶対神(仏)と向き合うことになるため、他の神仏を信仰することは邪教であり地獄に落ちるとする恐怖を植え付けます。

 そして、一神教(一仏教)の持つ二つ目の意味は、他の家族や祖先は救われなくても、自分だけが神(仏)からの祝福を受ければよいという考えであり、個人主義、合理主義の極地なのです。一神教とは、別の見方からすれば「一人教」なのです。ここには、家族の宗教であるとか、自らは地獄に落ちても家族や祖先、子孫を守りたいとする日本人(世界人)の祭祀の心は全くありません。

 このように一神教(一仏教)が世界に蔓延するまでは、すべての民は祭祀の民でした。ケルト人もゲルマン人などもすべて祭祀の民であり日本人でした。それが一神教(一仏教)によって「非日本人」が多く生まれました。日本列島も例外ではありません。日本列島は日本人だけのものではない、ということを軽薄な人が居ましたが、祭祀の民の観点からすれば、それは正しいのです。祭祀の民(日本人)というのは、国籍によって決まるものではありません。祭祀を実践する人が日本人なのですから、私が尊敬するジョージ・ウエスト博士は紛れもなく真正な日本人です。
 このことは、ユダヤ人が血統とは全く無関係にユダヤ教を信心する者がユダヤ人であるとする定義とよく似ています。

 この祭祀の観点から世界を見渡してみると、いわゆる発展途上国であると蔑まれている地域や国家の方が祭祀の民が多いことが判ります。欧米や日本列島など、合理主義、個人主義に毒された地域ほど日本人が少なくなっています。

 稗田阿礼の記憶に基づいて誦習して古事記が編纂されたように、ケルト人の神官であるドルイドは、専ら祭祀を司る地位にあり、その教へをすべて記憶し文字にしなかったことからすると、聖なるものは文字にすることによって俗化することを意味します。このことは、合理主義からすると無意味ということになりますが、これが無意味であると考えること自体が合理主義に毒されていることなのです。
 ケルト人は、基督紀元前50年ころの最盛期には、ヨーロッパ全土に居住していましたが、現在に至るまで、だんだんと西方へ追いやられて、アイルランドまで後退します。そしてケルト人の祭祀を捨ててカトリックに改宗します。それでもなおアングロ−サクソン人の支配するイングランドから絶え間なく侵攻を受けて、北アイルランドまで奪われてしまいます。ケルト文化の伝承はほとんどなくなりました。
 今では、北アイルランドにもある程度の自治権が認められ、アイルランドとイングランドとの和解が進んでいますが、これを受け入れないカトリック系のIRA(アイルランド共和国軍)などが、北アイルランドを含むアイルランド全島の祖国統一を掲げて抵抗を続けています。
 これは、数百年に亘ってイングランドの侵攻を受け続けてきたアイルランドの抵抗運動であり、民族対立よりも宗教対立が根底にある極めて政治的なものです。しかし、アイルランドはケルト系の住民が多いので、本来であれば、アイルランドの復活は、ケルトの復活であり、キリスト教からの解放、祭祀の復活でなければならないのです。

 祭祀の民としては、世界における祭祀の復活のために連携すべきです。家族を基軸とするイスラム教や仏教各宗派など、祭祀を全否定しない宗教とも連携して祭祀の実践を呼び掛けることも、祭祀の民(日本人)の務めであると自覚すべきなのです。

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とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
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