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國體護持塾は「利他」の精神で活動を続けております。

真正護憲論が普及するにつれて、インターネット上で國體護持塾や南出喜久治塾長への誹謗中傷とも取れる嫌がらせが増えている。これは実に残念なことである。我々は決して自分たちの利益のために活動をしているのではない。従って、嫌がらせを受ける道理など全くない。塾長、塾生は皆手弁当で活動に励み、少しでも、国が良くなればと願っている。もちろん、政治団体である以上、意見を異にする人達とは反目することもある。しかし、これはあくまでも政治上のことであり、決して相手の人格や存在を憎んでいるのではない。

日本には左翼、右翼、創価学会など様々な政治勢力が存在する。意図的に破壊活動を行う者は別にして、多くの場合、善かれと思いそれぞれの政治(宗教)団体に所属しているのであろう。その「善かれと思う」気持ちが大切である。この自己中心的でない、世のため人のために、と思う気持ちこそが「利他」につながる精神であるからだ。私の究極的な願いは日本人であるというアイデンティティーを基軸として諸勢力が一丸となり、国を想い、お互いに支え合うことである。

日本人は日本という一つの大きな家族の中に天皇皇后両陛下を父母として暮らしている。これほどありがたい国が他にあろうか。祖先をたどれば、皆何らかの縁でつながっているはずだ。このような気持ちで活動を続けていると、誹謗中傷する人も諦めてくれるに違いない。そう信じたい。以下、「利他」の精神があれば、世界に平和が訪れるという南出氏の考えである。これが國體護持塾の原点である。

≪祭祀は、祖先から連綿と命を受け継ぎ、家族を守り維持するという始源的な本能に由来するもので、家族愛による祖先への崇拝と感謝、子孫への慈しみとは不可分なものであり、死によって「から」(体、幹、柄、殻)を失った祖先の「たま」(霊、魂)は、常に家族の「から」と「たま」と一体となって共存しているとの確信こそが祭祀の原型なのである。「祭如在。祭神如在神。(祭ること在すが如くす。神を祭ること神在すが如くす。)」(論語)という言葉があるが、これは、「神人共在」である。また、たとえば、新年において、上下両方が使える白木の祝箸を使うのは、人が使う箸の上端部分で祖霊神が召し上がるためである。これは「神人共食」であり、大嘗祭での神事の雛形である。このように、家族は祖霊神と共に生きるのである。

そもそも、祖先祭祀の根源とは何か。それは、親が子を慈しみ、子が親を慕う心にある。我々の素朴で根源的な心には、たとえ死んで「から」を失っても、その「たま」は生前と同樣に子孫を慈しんで守り続けたいとするものである。たとえ自分自身が地獄に落ちようとも、あるいは自分自身が地獄に落ちることによって身代はりになれるのであれば、それと引き替えてでも、家族が全うな生活をすることを見守り子孫の健やかなることを願う。そして、子孫もこのような祖先(おや)の献身的で見返りを望まない心を慕うのである。死んでも家族と共にある。それが揺るぎない祭祀の原点である。子孫が憂き目に逢うのも顧みずに、家族や子孫とは隔絶して、自分だけが天国に召され、極楽・浄土で暮らすことを願うのは「自利」である。「おや」は、自分さえ救われればよいとする自利を願わない。これは「七生報國」の雛形である。一神教的宗教の説く救済思想への違和感はまさにここにある。「利他」の「他」は、まずは家族である。あえて家族から離れさせその絆を希薄にさせる「汎愛」では雛形構造が崩壞する。家族主義という「利他」を全ての人がそれぞれの立場で實現すれば、世界に平和が訪れることになるのである。

「親を親しむが故に祖を尊ぶ(親親故尊祖)」(禮記)や「親を思はざれば、祖は歸せざるなり(不思親、祖不歸也)」(左傳)、さらに「大義、親を滅す(大義滅親)」(左傳)などは、家(親)から宗族(祖先)へ、そして宗家(すめらみこと)へと連なる階層的な入れ子構造(雛形構造)を示すものであると同時に、自己保存、家族保存、種族保存、国家保存の各保存本能の階層構造において、最も優先する本能が國家保存本能であることを意味している。≫

【引用箇所】
南出喜久治著『くにからのみち』

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