スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

桜宮高校 生徒自殺について ー体罰を考えるー

本日は大阪市立桜宮高等学校バスケットボール部の主将であった2年の男子生徒(17)が、部活顧問の体罰を受けて自殺した問題を取り上げたい。國體護持塾は自立再生社会の構築のために占領憲法の無効と帝国憲法の現存を主張しているが、教育問題にも関心がある。現に、塾長の南出喜久治氏は戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長の顧問弁護士を務める傍ら、児童相談所による子供の拉致について警鐘を鳴らし続けている。今回の記事では國體護持塾で培った筆者の認識を基軸としながらも、國體護持塾の公式な見解としてではなく、筆者個人の意見として述べさせていただきたい。

桜宮高校は普通科に加え体育科系の学科を2つ持つ大変特色のある学校であり、地元では「さく校」の愛称で親しまれている。今回問題となったバスケットボール部はここ5年でインターハイに3度出場しており、上々の成績であったことが伺える。しかし、まだ発展途上の印象は拭えず、上には上がいるため、さらなるチームの強化を目指していたのではないだろうか。一方、体罰を加えた男性教師(47)はこれまでの指導力を買われ、平成24年には16歳以下の日本男子チームのアシスタントコーチにも選ばれたほどの熱血漢である。しかし、部員や他校の監督の証言によると、この教師には最近「焦り」のようなものが見られ、手を上げる回数も増えており、壁にぶち当たり、人事異動させられることを気負っていた様子もあったという。

一部報道によると、自殺した生徒には特に問題行動は見られず、かなり優等生の部類に入ると言われている。彼は無免許でバイクを運転して停学になった友人の勉強のサポートまでしていたという逸話もある。なぜ、このような生徒が自殺をするに至ったのかを推測すると、やはり部活顧問による激しい体罰以外に見当たらないのではないだろうか。もちろん、人の心理は常に錯綜して複雑であるため、自殺原因は複数考えられるかもしれない。しかし、顧問は主将であったこの生徒に対してある種「見せしめ」的に体罰を加え、数十発も殴り続けていたのである。これはもはや常軌を逸した暴力に他ならない。

そもそも、体罰と暴力の線引きは可能なのだろうか。これまでヨットスクールで千人近い問題児を更生させてきた戸塚宏氏によると、体罰とは子供にとって利益のある有形力の行使であるという。つまり、問題行動を改善させるために痛みを加えることである。戸塚氏の確立した脳幹理論では、体罰を通じて脳幹を刺激することで本能が蘇り、それに伴い表層的な行動面においても改善が見られ、正しい行いが導き出せるという。一方、暴力とはそれを行う側にとって利益のある行為だという。例えば、腹いせやストレス解消などとして子供に手を上げることである。虐待と何ら変わらないであろう。この体罰の定義は現場から導き出された帰納法的結論であるが故に、現場を知らない評論家やマスコミが総じて並べ立てる「体罰は悪である」とするコメントは空理空論であるとして排除すべきである。

マスコミはなぜこれほどまでに体罰を害悪視するのであろうか。理由は複数考えられるが、ここに明記しておきたいことは、我が国が未だ占領憲法・占領体制下にあり、その体制下に報道機関があることだ。体罰が問題行動のある子供を更正させているという事実は、戸塚ヨットスクールの実績を見れば明らかであるが、体罰の効果としてもう一つ、子供を強く逞しく育てるということも挙げておかねばならない。これは帝国陸海軍で行われてきた教練に由来する。つまり、体罰とは軍隊の教育そのものなのである。

日本軍が大東亜戦争において勇敢に戦い抜いたその強さは、教練を通じて培われた強靭な肉体と精神に源がある。米国はここに日本軍の強さの秘密を見出し、恐れおののいた。従って、これを除去するために、日本弱体化計画である対日心理戦略(日本計画)の一環として占領憲法の制定に加え、教育における体罰をも害悪視する風潮をマスコミ報道を通じて形成してきたのである。これにより連合国にとって不都合な記事はすべて検閲され、日本の言論機関は連合国の政策ないし意見を肯定的に表明する機関となり下がってしまった。従って、米国にとっては日本の強さの源である体罰、教練はなんとしてでも認めがたいのである。とりわけ、朝日新聞をはじめマスコミは一生懸命米国に従属し、これに違反しないよう自己検閲したのである。

今回の体罰・自殺事件はあまりにも痛ましい結末であり、若い命が失われるたびに深い悲しみを覚える。結果として、この顧問による体罰は失敗であったと断じざるを得ない。体罰とは子供にとって利益をもたらすものでなければならない。しかし、今回は最悪の結果に終わった。また、報道から推察するに、この教師は自己の功名心から体罰に及んでいた可能性が考えられる。だとすると、自己の利益のために行った行為であり、実質的には暴力と言っても差し支えないであろう。筆者は、今回の事件は教育的指導としての体罰が招いた悲劇というのではなく、自己の功名心と欲望に取り憑かれた教師が招いた暴力であり、それに耐え兼ねた自殺であったと思う。

最後に、この事件を受け、大阪市教育委員会は橋下徹市長の要請である「桜宮高校体育科系2学科の入試の中止」を決定した。この決定に対して筆者は反対の立場である。理由は2つある。第1に、体罰は先に述べたように強靭な肉体と精神を作るものであり、これを教育指導するための学校として桜宮高校体育科はこれまで十分に役割を果たしてきたからである。2番目の理由は、今回の悲劇は体育科そのものの在り方が招いたというよりも、むしろ、教育とは全く相いれない市場原理的な競争原理を教育に導入したことが招いたと思われるからである。これについての反省が市長および教育委員会の会見からは聞かれないことも問題である。成績を残せない学校は予算を減らされ、廃校にまで追い込もうとする現在の教育環境そのものがこのような常軌を逸した暴力教師を生み出したのではないか。学校は学校間で競争し合う必要などない。それぞれの学校は自発的な子供の競争心やライバル心を尊重し、また、それを暖かく育む「極めて静かで落ち着いた場」なのである。たとえ、部活動において他校と競い合うことがあるにしても、それは教育の一環であることを忘れてはならない。勝っても負けても、それは人生における貴重な勉強なのである。従って、部活動を通じて名声を求め、勝利を経営に反映させることなど教育ではなく、株式市場の論理である。このことに着目しないまま桜宮高校体育科を責めるのでは、あまりにも無意味であり、本質を欠いているのではないだろうか。今、日本人は「教育とはいったい何なのか」ということの本質を祖先、先人の教えを紐解き、もう一度見出さなければならない時が来ている。

関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。