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皇道忠臣蔵と暦-2/2

12月14日の赤穂浪士討ち入りの併せて2回に分けて掲載しています。
昨日の皇道忠臣蔵と暦-1/2

四 赤穂事件の真相
浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ原因は、いろいろと取り沙汰されているが、浅野内匠頭は、「この間の遺恨、覚えたるか」と告げて吉良上野介に刃傷に及んでいることから、遺恨説が有力とされている。しかし、この遺恨は、私憤ではなく公憤である。前に述べたような、尊皇派の赤穂浅野家と高家筆頭の吉良家との積年の確執が存在し、これがこの事件の遠因となっていることは否定できない。
山鹿素行の薫陶を受け、尊皇の志篤い浅野内匠頭長矩が、劇作で語られるような、子供のイジメにも似た他愛もない吉良上野介の仕打ちに、家名断絶を覚悟してまで逆上して刃傷に及ぶという乱心説で説明できるものではない。
また、吉良上野介も、赤穂浅野家の背後に朝廷の存在を意識したことは確実である。勅使、院使も、尊皇篤志の浅野内匠頭が饗応役を務めることだけで安堵され満足されたことであろう。それが吉良上野介には手に取るように感じていた。まさに、この刃傷事件が、勅使、院使の江戸下向の際に起こったことを考え併せれば、浅野内匠頭が隠忍しえない将軍家並びに吉良上野介の皇室に対する度重なる不敬の所業があったはずである。それゆえ、この刃傷事件は、「朝敵」吉良上野介に「天誅」を加えて成敗するための義挙であり、浅野内匠頭は、その本意が漏れてこれにより朝廷へ禍いが及ぶことを避け、刃傷に及んだ原因を一言も語らず、しかもきっぱりと「乱心にあらず」とし、宿意と遺恨をもって刃傷に及んだと弁明をするのみで、その内容を申し開きせず黙って切腹した浅野内匠頭長矩は、まことにあっぱれな天朝御直の民であり、皇道の実践者であった。しかし、その死は、朝敵吉良上野介を討ち果たせなかった無念の死であり、その辞世の句は、信念を背負って黙って散った男の凄さを物語っている。駄洒落を云うつもりではないが、假名手本忠臣蔵などの演劇や映画などをこのような思いで見ていると、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ場面で、梶川与惣兵衛が「殿中でござる」と制止する言葉は、「天誅でござる」との浅野内匠頭の心の叫びに聞こえてならないのである。
いずれにせよ、この刃傷が公憤によるものであったことを裏付ける理由として、先ず第一に挙げられるのは、前掲の「浅野内匠頭家来口上」には、「高家御歴々へ対し家来ども鬱憤をはさみ候段」(原文は漢文調)とあるからである。吉良家だけでなく、高家御歴々への公憤であることをこれは示しているからである。「浅野内匠頭家来口上」は、四十七士の署名のある、いわば、義士たちの命の叫びであり、これに嘘偽りがあるはずはない。
第二に、刃傷事件から間もない3月19日、京都御所の東山天皇の下に、刃傷事件の第一報が届けられたが、この時点では吉良上野介の生死については不明であるにもかかわらず、関白・近衛基熈によれば、東山天皇は「御喜悦の旨仰せ下し了んぬ」(『基熈公記』)というご様子であり、その後、公家の東園基量は、「吉良死門に赴かず、浅野内匠頭存念を達せず、不便々々」と語っていることから、皇室の高家に対する評価がどのようなものであったかがうかがわれる。また、これらのことが皇室で長く語り続けられ、明治天皇は、明治元年(西暦1868年)11月5日、「朕深ク嘉賞ス」との御勅書を泉岳寺に命達されている。したがって、この刃傷事件やその後の討入り事件が単なる私憤によるものではありえないことを意味していることが明らかである。
ところで、大石内蔵助は、討入りの準備において、わざわざ京都山科に家屋敷を取得するのであるが、これについては、なぜ京都山科の地が選ばれたのかについて納得のいく説明に未だかつて接しない。しかし、これには深い意味がある。この家屋敷の取得については、大石内蔵助の親族である進藤源四郎の世話によることは明らかであって、この進藤源四郎とは、近衛家の諸大夫・進藤筑後守のことであり、大石内蔵助は、この進藤源四郎を通じて、関白・近衛基熈との接触していたはずである。また、山科は、朝廷の御料であり、大石内蔵助は、山科の御民となって朝廷にお仕えし、皇道を貫く決意の現われであったとみるべきである。
大石家やその他赤穂浅野家の主だった家臣もまた、尊皇の家柄であり、山鹿素行が浅野長直の招聘で禄千石の客分として赤穂藩江戸屋敷で十年間にわたり藩士に講義を行い、堀部弥兵衛、吉田忠三衛門などが門人となったことは有名な話である。山鹿素行は、『聖教要録』において官学朱子学を否定し、それが反幕府思想であるとされた筆禍により、寛文六年(西暦1666年)に赤穂へ配流の処分を受けた。赤穂藩は、これを天恵として素行を受入れ、大石内蔵助も8歳から16歳までの間、素行の薫陶を受けている。
そのような大石内蔵助が、山科を拠点として関白・近衛基熈とその側近に接触し、幕府や吉良家などに関する情報を収集して、江戸での情報収集人脈を密かに築いていったことは想像に難くない。現に、元禄15年(西暦1702年)12月14日、討入決行の契機となった吉良邸で茶会が行われるという情報は、吉良邸に出入りしている茶人・山田宗の弟子・中島五郎作からもたらされたが、この中島五郎作と京都伏見稲荷神社の神職・羽倉斎(後の荷田春満)とはいずれも知己であり、吉良家家老・松原多仲は羽倉斎の国学の弟子という関係であった。
このような人脈から、用意周到に情報を収集して討入りを決行したのであって、決して芝居や映画のように、江戸に入ってから泥縄式で偶然に得られた情報ではありえない。吉良邸の茶会は、討入りを成功させるために、むしろこれらの人々の協力によって催されたものと推測できる余地もある。このように、討入りの計画は、現代でも通じるような綿密な情報収集と巧妙な情報操作による情報戦争の様相を呈していたのである。
五 むすび
以上は、史料を基礎として若干の推測を加えて構成したものであるが、当たらずといえども遠からずであろう。
そうであれば、幕府が、刃傷事件により赤穂浅野家を断絶させたうえ、吉良家をお咎めなしとし、その後、赤穂浅野家の度重なるお家再興の願いも聞き届けなかったのは、単なる幕府の片手落ちではなく、尊皇派の排除を実現し、かつその復興を阻止するとともに、佐幕派の保護という一石三鳥の深謀と受け止めることもできる。そして、幕府が赤穂旧臣討入りを真剣に阻止せず放任し、むしろこれを暗に奨励したのは、赤穂旧臣の義挙が皇道を旗印にすることなく、士道を名目とする以上、幕藩体制を支える士道倫理の強化をもたらすと考えたとしても不思議ではない。喧嘩両成敗を事後に実現して公正さを維持するためには、吉良家を断絶させることになるが、高家は吉良家だけではなく、皇室に余りにも憎まれ続けた吉良家はその役割を既に果たしているから無用の存在となっていた。
このように、幕府は、唐突に起こった刃傷事件と討ち入り事件を巧みに利用して、尊皇派を封じ込め、幕藩体制を強固にしたということもできる。
このように、この事件とその背景には、様々な権謀術数が渦巻いている事情があるとしても、赤穂尊皇派からみれば、「消えざるものはただ誠」の一文字で貫かれている
それゆえ、この事件を、浅野内匠頭の刃傷から大石内蔵助ら赤穂旧臣が吉良邸討入りまでの1年8ヶ月だけの「元禄赤穂事件」として限定的に捉えてはならない。そのように捉えてしまうと、討入りによって変則的な士道を実践しただけの矮小化した物語になってしまうからである。したがって、少なくとも、この事件は、万治4年の京都御所の火災から元禄15年の吉良邸討入りまでの約四十年の間、赤穂浅野家とその家臣らが代々一丸となって皇道を貫き、身を殺して仁を成したという一連の長い物語として新たな解釈がなされるべきである。
そして、士道が皇道の雛形であり、この事件には、士道の名の下に皇道を実践したという側面があることを認識すれば、この事件を、「皇道忠臣蔵」と言っても過言ではない。「忠臣蔵」の「蔵」は、内蔵助の蔵を意味するので、もっと広く赤穂藩全体の皇道を指し示す意味の言葉を用いたいのであれば、これを「赤穂藩の尊皇運動」と呼んでも差し支えない。
「歴史とは、文字によって描かれた物語なのであり、文字によって掬い取ることができた限りにおいて歴史であり、人間の思想なのである。」(村上兵衛)とすれば、我々は、この赤穂事件を尊皇物語として捉え直してみてもよいのではないかと考えている。
誤解を恐れずに言えば、士道の名の下に皇道を実践したこの事件は、皇道の名の下に似て非なる方向へ向かった二・二六事件とは雲泥の違いがあり、我々にとって今なすべきことは、これらの事件を己の教訓として、皇道の至誠を貫くにおいて範とすべきものは何であるのか、そして、不惜身命に何をなすべきか、ということをもう一度問い直してみることなのである。

平成14年11月28日記す 南出喜久治
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