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皇道忠臣蔵と暦-1/2

こんにちは 12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日とされています。
今の暦(太陽暦)ですと、この討ち入りの時間は14日から0時を過ぎているので、正確には15日未明なのでしょうが、ご主君である浅野長矩公が切腹なさった14日に主君に準じるという考え方と共に、日本の本来の暦である太陰太陽暦ですと、日の出から新しい日が始まるという考え方ですので、14日の討ち入りという考え方が日本人には合いますね。

暦のお話はこちらの数え年と暦 國體護持塾HPをご覧下さい。
数え年と暦

今日は南出喜久治先生が平成14年に書かれた皇道忠臣蔵を13日、14日とこちらにも貼らせていただきます。 原文はこちら 皇道忠臣蔵
(原文より少し暦の表記を編集しています)

一 はじめに
元禄14年(西暦1701年)3月14日、勅使、院使の江戸下向の折、その饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城・松の廊下において高家筆頭(肝煎)吉良上野介義央に対し刃傷に及び、その結果、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家断絶となるも、吉良上野介には一切お咎めなしとの将軍徳川綱吉の裁断が下った。その後、赤穂浅野家城代家老大石内蔵助良雄ら赤穂浅野家旧臣ら(以下、「赤穂旧臣」という。)は、赤穂城を無血開城し、赤穂浅野家の再興に尽力するも叶わず、遂に、元禄15年(西暦1702年)12月14日、吉良邸に討入って吉良上野介を討ち果たし、亡君浅野内匠頭の遺恨を晴らした。これが、世に言う、「赤穂事件」と呼ばれているものである。
赤穂旧臣が吉良邸討入りの際に掲げた「浅野内匠頭家来口上」によれば、浅野内匠頭の刃傷を「喧嘩」と断定し、もののふのみち(士道)と喧嘩両成敗の在り方を満天下に問いつつも、幕府の政道及び幕藩体制そのものをあからさまに批判しなかった。しかし、幕府は、庶民の喝采と幕閣の嘆願に驚愕して、赤穂旧臣を罪人として打ち首とはせずに、かろうじて武士として処遇し切腹をさせたものの、よすがの人々を罪人として扱い、その遺族や末裔に対しても仕打ちを与えた。
ところが、この、亡君の仇討ちに似せた巧妙でしたたかな口上による義挙は、幕府はおろか、江戸のみならず全国の士農工商あらゆる階層に大きな衝撃を与え、この事件は、歌舞伎の假名手本忠臣蔵など、演劇、文芸、絵画など様々な分野にわたり、今もなおあらゆる方面において長く語りつがれている。
二 皇道と士道
では、なぜ、それほどまでにこの事件は日本人の心を捉えて離さず、我々の魂をゆさぶって心身を熱くさせるのか。従来、これについて多くの検討と解説が試みられたが、いずれも納得のいくものではなかった。本稿では、今まであまり語られていなかった視点から、この事件の実像に迫ってみたい。
それは、先ず、「皇道」と「士道」という視点である。そこで、その手掛かりを見出すために、「楠木正成」と「真田幸村」とを比較してみる。両者とも、その忠義の有り様が至純である点で同じであるが、忠義の対象を異にする。これを王覇の弁え、すなわち、権威と権力、王者と覇者、王道と覇道とに区分して捉えれば、各々の忠義の道は、王者への忠義と覇者への忠義に分類される。前者は、尊皇の道、すなわち「皇道」であり、後者は、武士の道、すなわち「士道」である。この分類であれば、赤穂旧臣は、真田幸村と同じ士道であり、決して、楠木正成の皇道と同じではない。
思うに、「皇道は公道なり。士道は私道なり。」とは至言である。したがって、士道は、国家変革を起すだけの起爆剤とはなりえず、皇道のみがその役割を果たすことは、明治維新などを見ても明らかである。それゆえ、この二つの道は全く異なる。皇道に反する士道もありうるからである。しかし、ともに「死ぬことと見つけたり」とする身の処し方と至誠において一致する。それゆえ、士道は、皇道の相似象、つまり「雛形」としての性質と役割を果たしてきたのである。
ところが、真田幸村と赤穂旧臣とは、ともに士道でありながら、その評価が著しく異なるのはどうしてなのか。さらに言うならば、真田幸村は、豊臣家の家臣であり、豊臣家の家臣として戦い、そして散っていったのに対し、赤穂旧臣は、あくまで赤穂浅野家の旧臣であって、旧臣として義挙し、旧臣として果てた。赤穂旧臣の場合は、君主なき士道であって、士道の本道とはいえない。
また、吉良上野介を打ち果たせなかったという亡君の無念を赤穂旧臣の立場で晴らしたまでであって、いわゆる仇討ちとか、意趣返しというものでもない。斬りつけられたのは吉良上野介の方だからである。浅野内匠頭が切腹となり、赤穂浅野家が取り潰され、その赤穂旧臣が流浪に身を置かざるを得なくなったのは、幕府の裁断によるものであり、吉良上野介の仕業ではない。その意味では、赤穂旧臣全員の切腹をさせるに至った荻生徂徠の見識のとおりである。
この裁断に異議を唱えるならば、大塩平八郎のように、幕府に弓を引かなければならなくなる。亡君が仕えた武家の宗家(棟梁)に弓を引くことは、幕藩体制における武士としての大義名分が成り立たない。幕府の政道を糺すための義挙というのは、士道からは導けない。士道の自己矛盾となるからである。しかし、赤穂旧臣とはいえども亡君への忠義と節操を貫き、何としてでも亡君の無念を晴らしたい。このように、二律背反の相克に陥った場合、士道は武士に何を求めるか。それは諌死である。士道は、公憤の義挙を否定し、私憤の領域である諌死を求める。つまり、赤穂城明け渡しに際して、亡君の後を追って切腹して果てることが本来の武士の姿である。このことは、後世になって、長州藩の山鹿流軍学を引き継いだ吉田松陰も鍋島藩に伝わる『葉隠(聞書)』における山本常朝もこれを指摘するところではあるが、赤穂旧臣は、それをせずに、吉良上野介に矛先を変えた。かといって、これは義挙ではあるが、幕府の政道を直接的に糺すという公憤の名目ではなく、仇討ちに似た私憤の名目を掲げている。これは、どうも、本来の士道ではない。したがって、純粋に士道の観点だけからすれば、真田幸村の方が赤穂旧臣よりも高い評価が与えられて然るべきである。
しかし、赤穂旧臣の示した忠義の方が真田幸村の忠義よりも、どういうわけか現代に至るまで根強く我々に感動を与え続けるのは、この赤穂事件には、士道だけでは説明のつかない何かがあるからである。おそらく、赤穂事件の深層に、士道を超えた、日本人の思考と行動における本質的な何かが宿っているためであろう。それは、赤穂旧臣は、「士道」の名の下に、隠された「皇道」に殉じた側面が存在したからに他ならない。そして、我々は、無意識のうちに、あるいは民族本能的に、この事件の背後に隠されている皇道の実践を感得して熱狂し続けるのであろう。
では、一体、その皇道とは、どのようなものであろうか。何があったというのであろうか。それを明らかにしようとするのが本稿の目的である。
三 赤穂事件の背景
吉良家は高家の肝煎(筆頭)であり、その高家の役割とは、表向きは有職故実に精通して皇室と徳川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあったが、その実は、幕府の使者として、皇室・皇族を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することにあった。
すなわち、幕府による皇室不敬の所業は厳酷を極め、元和元年(西暦1615年)、禁中并公家諸法度により、行幸禁止、拝謁禁止を断行した。つまり、世俗な表現を用いるならば、幕府は、天皇を、京都御所から一歩も出さず、公家以外は誰にも会わせないという軟禁状態に置いたということである。これは、たとえば、諸大名が参勤交代の途中、京都の天皇に拝謁する慣例を認めるとなれば、それがいずれは討幕の火種となることを幕府は恐れたからに他ならない。現に、寛政6年(西暦1794年)、光格天皇により、尊皇討幕の綸旨が、四民平等、天朝御直の民に下されるまで約180年の歳月を要し、文久3年(西暦1863年)に孝明天皇による攘夷祈願行幸で行幸が復活するまで、約250年の長きにわたって幕府の皇室軽視は続いたのである。
ところで、後水尾天皇(慶長16年・西暦1611年~寛永6年・西暦1629年)は、幕府が仕掛けた、徳川秀忠の子和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、中宮和子による家光の乳母・斎藤福に「春日局」の局号を与えたことに抗議して退位された。
そして、明正天皇(和子の子、興子内親王、七歳)が即位されることになるが、その陰には吉良家などの高家の暗躍があり、その他の女官の皇子は悉く堕胎や殺害されたと伝えられている。以後は、後水尾上皇が院政を行われて幕府と対峙され、その後の後光明天皇、後西天皇、霊元天皇はいずれも後水尾上皇の皇子である。
承応3年(西暦1654年)には、後西天皇が即位されたが、それと前後して、国内では、突風、豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、暴風雨、津波、火山噴火、堤防決壊など異常気象による自然災害や、何者かの放火とみられる伊勢神宮内宮の火災、京都御所の火災(万治4年・西暦1661年)などの大きな人為災害が次々と起こった。そこで、幕府(四代将軍・家綱)は、これに藉口し、これらの凶変の原因は後西天皇の不行跡、帝徳の不足にあるとして退位を迫ったのである。その手順と隠謀を仕組んだのは、高家筆頭の吉良若狭守義冬、吉良上野介義央の父子である。
そして、これらの凶変のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家側)の放火によるとの説が有力である。
一方、赤穂浅野家は尊皇篤志が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に対極の立場にあった。幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政権安泰の要諦であることを歴史から学んでいる。そこで、製塩事業で藩財政が豊かである赤穂浅野家などの尊皇派大名の財力を削ぐことを目的として、京都御所の放火を企て、あるいはその火災を奇貨として、禁裏造営の助役(資金と人夫の供出)に浅野内匠頭長直(長矩の祖父)を任じたのである。これにより、赤穂浅野家は、その後莫大な資金投入を余儀なくされるが、これを尊皇実践の名誉と受け止め、赤穂城の天守閣を建てられないほど藩財政が著しく逼迫することも厭わず、見事なまでに禁裏造営の大任を果たすのである。
しかし、御所落成を機に、寛文3年(西暦1663年)、後西天皇は遂に退位され、霊元天皇が即位された。幕府は、その際、禁裏御所御定八箇条を定め、皇室に対し、見ざる言わざる聞かざるの政策をさらに徹底することになる。そして、この禁裏御所御定八箇条の発案は、まさに吉良上野介によるものであった。





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テーマ : 文明・文化&思想
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