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-占領典憲パラダイムの転換をもとめて-5/11【規範とは何か】

 規範の命は、その規範に違反する行為を無効であるとすることにある。これを否定すれば規範は規範でなくなる。行為規範としても、評価規範としても、当該規範に違反するものは法的保護に値しないこと、それが「無効」という法的概念の意味である。帝国憲法に違反した改正行為は無効である。仮に、そのような明文規定がなくても、憲法典の上位規範である規範としての國體(國體規範)に違反するものは無効である。このようにして我が国の秩序は維持されてきたのである。
 それを近代合理主義が、憲法制定権力(制憲権)なる概念を打ち立てて、制憲権によって憲法が作られると主張することになった。伝統国家の憲法とは、國體に含まれる祖法を投影したものであり、作られた法ではなく発見された法なのである。帝国憲法の告文などはそのことを示している。

 我が国の近代は、外来思想に染まって、その猿真似することが学問的な権威とされた。これは今も続いている。そのために、現在の憲法学というのは、占領憲法解釈学しかなく、国法学、國體学がない。憲法典の上位規範を認めるか否かについて様々な見解があるが、いずれも仮説であり一つの学派に過ぎない。真理は、多数決では決まらない。正当性説に集約される近代法学の誤りに多くの人々が気付き始めた。「伝統法学」が胎動したからである。そのどちらに説得力があるのかの問題である。演繹法による証明はできないので、すべては帰納法による証明に委ねられることになる。

 そして、世界においては、「憲法典の上に憲法なし。」との命題は、帰納法的に否定されている。イスラム教世界やキリスト教世界では、当然のこととしてこのこととして否定される。アメリカ合衆国ですら、聖書に手を置いて大統領は宣誓するのである。これは、国法体系(憲法体系)の上に聖書やコーランという最高規範があることを意味するものであり、「憲法典の上に憲法(最高規範)あり。」ということである。これが世界各国における國體の概念であり、我が国の國體概念と同じ構造となっている。これが世界の常識であり、ここには欧米の一部にしか適用されない合理主義的法学(近代法学)は適用されない。このことは我が国でも同じである。合理主義的法学を唱える者が、仮に多数を占めたとしても、真理は多数決で決められるものではない。ましてや憲法学者だけで決められるものではない。そんな特権は学者であらうと誰にでも認められてはいないのである。学問的な真理は多数決では決められない。これも世界の常識である。それを頑なになって、「この紋所が目に入らないのか!」と言はれて平伏するのは、水戸黄門のドラマだけにしてほしいものである。「効力論争はできないことになっている」と強弁するのは、異説を一切認めない朱子学に等しい考えであり、学問をする謙虚さを失った哀れさを感じる。

 一例を挙げてみる。占領憲法には歴史伝統を重んじる規定はなく、むしろ、これを否定している。さらに、占領憲法には、やまとことばが国語であるとの規定も存在しない。さうであれば、国語の選定は法律事項であるから、やまとことばを廃止して、英語を公用語とし、さらには生活言語とし、やまとことばの使用を禁止する法律は違憲ではないことになるのか。これを肯定するのが近代法学であるとすれば、このような論理は誰も支持しない。ここでは長い歴史を踏まえて成立した明文規範を越える不文の規範としての國體が認識され、これは國體違反として無効であると判断されることになる。これが「伝統法学」なのである。
 我が国の憲法というのは、古事記、日本書紀などで語られる不文法の世界であり、明治の帝国憲法という憲法典のみではない。正統憲法は、五箇条のご誓文や教育勅語などを含む総体であり、帝国憲法のみが正統憲法であるとするものではない。
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