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-占領典憲パラダイムの転換を求めて-3/11【学界、政界等における無効論】

 効力論争については、昭和三十一年の憲法調査会法によってなされる予定であったが、無効論の識者は一人も調査会委員にはなれなかった。調査会報告書は、無効論があることを紹介するだけに留まったのである。

 しかし、憲法無効論は、我が国の学界において根強く主張されてきた。占領憲法制定当時に無効論を主張していた代表的な論者としては、井上孚麿氏、菅原裕氏、谷口雅春氏、森三十郎氏、相原良一氏、飯塚滋雄氏、飯田忠雄氏などであるが、外にも、太田耕造氏(元・亜細亜大学学長)、澤田竹治郎氏(元・最高裁判所判事、元・日本弁護士連合会憲法審議委員長、憲法学会初代理事長)などがいた。福田恆存氏も昭和四十年に著した『當用憲法論』で占領憲法が無効であると主張していたし、現在でも小山常実氏その他の論者がいる。
 なお、これらの学者以外にも、政治家の主張として、昭和二十八年十二月十一日の衆議院外務委員会における並木芳雄委員の発言(第九条無効論)、昭和二十九年三月二十二日の衆議院外務委員会公聴会における大橋忠一議員の発言、そして、昭和三十一年に内閣に憲法調査會を設置する法案の発議者として同年七月四日に参議院本会議において提案趣旨説明をなした清瀬一郎衆議院議員の発言、さらに、「文藝春秋」平成十一年九月特別号所収の自由党党首小澤一郎論文(「日本国憲法改正試案」)などがある。
 そして、この占領憲法制定過程において、当初から外務大臣、そして内閣総理大臣として深く関与してきた吉田茂氏は、「・・・改正草案が出来るまでの過程をみると、わが方にとっては、実際上、外国との条約締結の交渉と相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層”渉外的”ですらあったともいえよう。ところで、この交渉における双方の立場であるが、一言でいうならば、日本政府の方は、言わば消極的であり、漸進主義であったのに対し、総司令部の方は、積極的であり、拔本的急進的であったわけだ。」(吉田茂『回想十年』第二卷)と回想しているとおり、まさに占領憲法は、交渉当事者の認識としても「外国との条約締結の交渉」としての実態があったということである。つまり、占領憲法制定作業は、政府とGHQの二者間のみの交渉によってなされ、政府は常にGHQの方のみを向いて交渉し、帝国議会や臣民の方を向いていなかったことから、占領憲法は、国内法としての憲法ではなく、国際法としての講和條約であったということである。
 このことは、何も交渉当事者であった吉田茂氏だけの感覚や評価に限られたものではなかつた。たとえば、上山春平氏(京都大学名誉教授)は、『大東亜戦争の思想史的意義』の中で、「あの憲法は、一種の国際契約だと思います。」と述べており、また、有倉遼吉氏(元早稲田大学法学部教授)も占領憲法が講和大権の特殊性によって合法的に制定されたとする見解を示していたこともあったのである。また、黒田了一氏(元・大阪市立大学法学部教授、共産党系の元・大阪府知事)も、占領憲法を「条約」であるとする見解を示していたのである。
 ところで、前述した昭和二十九年三月二十二日の衆議院外務委員会公聴会において、外交官大橋忠一議員の発言には注目すべきものがある。大橋忠一議員は、第二次近衛内閣当時の外務次官を務め、また、昭和十五年十一月に松岡外務大臣のもとで外務次官となって日米交渉に携わった外交官であるが、この衆議院外務委員会公聴会において、「GHQの重圧のもとにできた憲法、あるいは法律というものは、ある意味においてポツダム宣言のもとにできた政令に似た性格を持ったもの」という発言をしている。長く外交官を務めた者の判断として、占領憲法は、ポツダム宣言に根拠を持つ下位の法令であるとしているのである。
 また、吉田茂氏の第一次内閣発足直後の枢密院審議において、吉田氏は、「GHQとは、Go Home Quicklyの略語だという人もいる。GHQに早く帰ってもらうためにも、一刻も早く憲法を成立させたい。」と発言して、これが講和の条件として制定する趣旨であることを枢密院に説明し、枢密院は講和独立のためという動機と目的のために帝國憲法改正案を諮詢したことになり、講和条約の承認としての実体があったことになる。
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