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青少年のための連載講座 祭祀の道 =第四十一回 モーセと祭祀=

毎月1日に 國體護持塾のHPに掲載しています青少年のための連載講座 8月分 祭祀の道 =第四十一回 モーセと祭祀= が掲載されました。
こちらのブログには、仮名遣いを読みやすくし、一部、漢字にカナを付けたものを掲載いたします。

元の分は こちら (國體護持塾HP)

 第四十一回 モーセと祭祀

                    南出喜久治
                    平成二十四年八月一日記す

くにつふみ いとつばらかに かたるひと あらましごとの しるやすくなし
(國つ史 いと委曲かに 語る人 あらまし事(將來豫測)の 知るや少なし)


 モーセ(モーゼ)は、偉大な民族指導者であり英雄です。なぜならば、モーセは、民族意識を確立させて、祭祀の復活により自立再生社会の実現を目指したからです。
 モーセの実像は、決して、現在、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において、宗教的に語られるモーセの姿とは相当に異なります。そのことを今回は説明しようと思います。

 モーセと言えば、紀元前十三世紀ころのイスラエル民族(ヘブライ民族)の指導者で、旧約聖書の創世記から申命記までのモーセ五書(トーラー)、あるいはヨシュア記までの六書の著者であり、神の啓示により、エジプトの奴隷となっていたイスラエル民族を率いてエジプトから脱出し、神との契約とされる「十戒」を授けられ、艱難辛苦(かんなんしんく)の後に約束の地カナンに到達したものの、ヨルダン川を渡れずに亡くなった英雄です。

 当時の奴隷というのは、今では想像を絶するものです。百年前におけるアメリカの奴隷は、エジプトの奴隷と比べたら、より人間的な扱いがされていました。ただし、アメリカ奴隷でもそうでしたが、奴隷は「人」ではありません。欧米でいう「人権」とは、奴隷にはありません。奴隷は家畜と同じです。

 家畜と同じですから、欧米の婦人は、奴隷の前でも平気で着替えしたり裸になります。皆さんも家畜の前で裸になっても、羞恥心は感じないでしょう。それと同じです。会田雄次氏の『アーロン収容所』に書かれていますが、イギリス人は、日本人などの有色人種を猿人とみなして人間と思っていなかったので、イギリス人の婦人は、日本人捕虜の前で、平気で裸になって着替えをしたそうです。つまり、日本人捕虜は奴隷扱いだったのです。約七十年前でもそんな状況でしたので、今から約三千二百年前のエジプトでのヘブライ人奴隷の扱いは、それとは比べものにならないほど過酷な扱いがなされていたわけです。

 また、家畜だと、親子兄弟の区別もありません。親子間でも兄弟間でも交尾させて子供を作らせます。子供も大きくなれば奴隷になりますので、大切な「財産」ですから、誰に生ませても、誰に作らせても同じだからです。親奴隷が病気になって働けなくなれば、子奴隷に親奴隷の「殺処分」をさせます。その逆もあります。
 家畜では、主人の人間に必要な身の回りの世話をさせることができませんが、人間の奴隷だと、それが可能になって便利です。奴隷と家畜は、その役割分担を異にするたけで、「人畜」として一括りされる存在だったのです。

 そんな奴隷として、へブライ人の多くがエジプトに拘束されていました。民族全体が奴隷となっていたのであり、そのことは、民族そのものが家畜化して消滅したのも同じでした。そのヘブライ民族をまとめて脱出させるだけでなく、民族の誇りを甦らせ、約束の地で民族固有の社会生活を再生させることは並大抵の努力ではできません。私たちの今に置き換えてみれば、このときのモーセの苦難と努力が、如何に途方もないことであつたことが容易に想像できるはずです。
 この絶望的な状況から民族の再生を実現させたことは、紅海が割れたことや、「マナ」の恵みよりも、もつと大きな奇跡と言えます。

 そして、その民族再生のための掟として示されたものが「十戒」です。十戒には、神と人との関係と、人と人に関する項目があると分類されてゐます。このうち、人と人に関する項目の中で、まず定められている中心の項目が「「汝、父母を敬へ」です。

 どうしてこれがあるのか。
 それは、奴隷には「奴隷道徳」しかなく、前に述べたとおり、親子の秩序関係は完全に破壊されていたからです。奴隷道徳とは、奴隷が従う掟であり、主人に対する絶対的服従のことです。主命であれば、親殺し、子殺し、兄弟殺しなど何でもします。親子の情愛を捨て去ることが奴隷に求められる奴隷道徳です。
 奴隷は家族を持つことができません。奴隷の中には、例外的に恵まれた者が居て、家族を持つ者も居ましたが、それは、主人にとって、その方が財産的価値が保てると判断した場合に限ります。それは人として備わるべき温情によるものではありません。本当に温情があれば奴隷を売り買いして勝手に処分することはできません。家族を持たせて不都合なことが起これば、すぐに売り飛ばしたり交換して家族を破壊させるのです。ですから、比較的恵まれた奴隷の中には、エジプト脱出後も、慣れ親しんだファラオの神を崇めるという悲しい習性を捨てきれなかったのです。そのためにも、モーセの十戒は必要なものだったのです。

 このような主体性のない信仰の習性は、言うならば「抑圧された奴隷の個人主義」です。親も子もなく兄弟の序列や秩序もなく、すべて平等で同じ奴隷という立場であることは、「個人主義」の基礎条件を満たしているからです。家族の観念も情愛も無慈悲に否定しなければ、奴隷として生きて行けません。奴隷には、家族がなく、例外的に家族ができても、いつでも壊される運命にあります。ですから、個人個人がばらばらに生きていくことしかありません。だからこそ「奴隷道徳」は、家族主義ではなく個人主義に似ているのです。

 そんな歪んだ奴隷道徳に浸りきったヘブライ人に、民族の起源と民族祭祀の重要性をいきなり説いても誰も理解できません。ですから、モーセは、まずは奴隷道徳から解放するために、まずは「父母を敬う」という祭祀の出発点をまず植え付けたのです。

 「抑圧された奴隷の個人主義」に浸り続けたヘブライ人に、単に抑圧を除去し、奴隷から解放されれば、全く歯止めの利かない「個人主義」に陥ります。それは、奴隷からの解放であると同時に、民族の崩壊を意味します。家族を否定された生活をしてきた奴隷が、奴隷でなくなれば、家族否定の完全な個人主義になってしまいます。このような個人主義を一人歩きさせることは絶対に避けなければならなかったのです。そこにモーセの腐心がありました。

 そこで、歯止めの利かない個人主義を押さえ込み、「ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち」という、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀などの「祭祀の道」に民族を誘うには、まずは父母を敬ふことから始め、また、個人主義の暴走に歯止めを利かすために、「神の道」を説いたのです。

 この「神の道」は、一神教ではありません。ヘブライ人には、ヘブライ人の神があるといふことです。それは、エジプト王家(ファラオ)が崇める神でも、主人(主家)の崇める神でもない、ヘブライ人にはヘブライ人の神があるということです。奴隷のヘブライ人には、民族の神を崇める自由はありませんでした。他民族の神とは異なるヘブライ民族独自の神があることを強調することによって民族の自立を目指すものでしたが、いつの間にか、長い間の苦難を経て一神教の傲慢さが染みついてしまったのです。「選民思想」とは、本来は民族の自決を自覚させる思想であり、父母から祖先を通じた民族の「カミ」があること意味したのです。

 仏教にも、モーセの十戒を模した「十戒」がありますが、これには、「父母を敬う」という徳目がありません。仏教伝来地域にはエジプト奴隷のようなものが存在しません。家族主義の社会が仏教伝来地域であったことからして、その地域では家族主義が当然であるとされたため、その徳目が書かれなかったとも言えます。
 しかし、それが書かれていないことが、いつの間にか一人歩きして、仏教伝来社会もだんだんと個人主義に陥って行きます。

 我が国でも、日本霊異記には、「不孝の衆生は必ず地獄に落ち、父母に孝養すれば浄土に往生す」とあったものが、親鸞の時代になると、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念佛申したること、いまだ候はず」と「歎異抄」で誇らしげに語ったように、父母への孝養が否定されてしまいます。

 もちろん、モーセの十戒における父母の孝養も、イエスが「福音書」で説いた父母の孝養も、その後の宗教世界では、神との関係を絶対視するために、徳目としては希薄となり否定される傾向があることはご承知のとおりです。

 ところで、旧約聖書を経典とする宗教は、すべて一神教となっていますが、そもそも旧約聖書は、一神教の経典であると決めつけることに大きな疑問があります。
 それは、「God」の起源は、旧約聖書の原典のへブライ語のエロヒム(「Eloheim」又は「Elohim」)であり、「im」は複数形を表すからです。ヘブライ語原典の聖書には、数え切れないほど「エロヒム」が出てきます。単数形は、「Eloh」(エロハ)ですが、エロハはではなく、すべてエロヒムです。このエロヒムという言葉は、「天空から降りてきた人々」という意味です。複数の人間なのです。竹内文献などで語られる「宇宙人飛来説」を想像しうる記載なのです。「God」を「神」と訳するのは最大の誤訳ですが、仮に、これを神と訳したとしても、「神々」と複数形になるのです。

 もっとも、申命記には、「主は私たちの神(Elohim)。主はただひとりである。」と書かれていますが、複数であると同時に、それが単数に収斂(しゅうれん)するというのは、決して矛盾するものではなく、祭祀の道を極めれば理解することが容易です。

 モーセの「十戒」では、初めに、神と人との関係が説かれています。しかし、この「神」は複数形なのです。つまり、モーセの信仰世界であつたエロヒムという認識は、八百万の神々に近かったはずですし、その遙か彼方に、国常立神、天之御中主神を想起して、「ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち」といふ「祭祀の道」を確信していたに相違ありません。

 そして、モーセは、ヘブライの民がシンの荒野で飢いたとき、神に祈って天から「マナ」を降らせますが、これによって40年間に亘って飢えを凌いだことからして、神が作った超自然的なものであるとされています。しかし、これは、モーセの指導によってヘブライ人が他民族に頼らずに自らの食料を40年間に亘って自給自足する自立再生社会を実現したことを寓意(ぐうい)していることに他なりません。ところが、その後に起こる戦いの連続と自然環境の変化、そしてモーセの死によって、ヘブライ人の自立再生社会がついに崩壊してしまったことを意味しているのです。

 このように、旧約聖書に別の視点から光を当てれば、旧約聖書は、祭祀の道と自立再生社会とが一体であることをモーセの生涯を通じて語っているものと解釈できるのです。

 今、我々は、賭博経済の拝金主義という奴隷制度に埋もれていると言っても過言ではありません。その奴隷世界から脱出し、約束の地である自立再生社会の「まほらまと」に到着して安住するためには、一人ひとりがモーセの志と勇気を持って実践することなのです。私たちは、改めてモーセの偉大さを再認識して顕彰し、すべての同祖論の彼方には世界のスメラミコトが御座しますことを確信して、天皇祭祀の雛形となる祭祀の道をそれぞれが実践しつつ自立再生社会を目指すことが今最も求められているのです。

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