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労働問題と自立再生社会

先週、私は原発の推進と反対を巡って保守系と革新系が対立していることが不思議であると述べたが、労働問題を巡っても同様な状態が続いている。もちろん、マルクス主義である共産党は労働問題を中核に据える政党であるが、社民党、民主党も労働組合に支持母体を持つ政党であり、労働問題には意識が高い。その一方で、自民党などの保守政党はこれまで労働問題に対する意識は革新政党に比べると希薄であったことは否めない。しかし、私は保守を自認する人にも労働問題にもっと関心を持っていただきたい。

かつて、『天皇とプロレタリアート』の著者であった里見岸雄は貧困が蔓延すれば、国への忠義もあったものではないとして、「社会主義を日本国体化せよ。毒河豚ですらもこれが毒素を除去すれば、膳に賞味すべき佳肴となるではないか。一社会主義を消毒利用し得ざるが如き無力なるものにして何の萬邦無比の国体であろう。」と呼びかけた。この言葉はそのまま肯定できないものの、勇気のある発言であり、日本の右翼の歴史においても非常に珍しい例だと思われる。

これまで、多くの場合、有産階級(ブルジョワジー)が保守系を代表し、天皇、国体を護持する立場を担ってきた。その一方で、労働者(プロレタリアート)に代表される革新系は革命により国体を破壊しようとすることを目的として、我々からすれば反日だと呼ばれる姿勢を堅持してきた。しかし、このように階級により国体の護持と破壊を二分することは極めて不健全である。私は、有産階級であろうが、労働者階級であろうが、日本人である限り天皇陛下の大御宝であり、産業構造上の立場の違いはあれど、ともに日本を担っていかなければならない存在だと思う。皆が協力しあい、国造りに励むことこそ、大御心に適っているはずである。南出喜久治氏も労働問題に目を向けている。なかなか保守系の言論人はこの問題に目を向けない中において、である。以下、その箇所を引用した。

≪さらに、産業構造を支える基盤においても変化が生じている。マルクスが指摘したような、資本家が労働者(プロレタリアート)を搾取し、労働者が窮乏化するという一方方向のみの問題はなくなり、その後の資本主義社会は、労働者が「消費者」となることによって、労働者は単なる搾取の対象ではなくなってきた。資本家に支配され搾取される労働者が、その得た賃金を以て商品購買力を持つ消費者として資本家の前に登場し、商品のより高い付加価値を求めることによって、逆に資本家の活動を推進させ支配するという循環的な協力關係が構築された。この循環の中において労働運動は終息し始める。

しかし、このことは、資本家と協力関係を濃密に構築する富裕層の労働者を生み出したものの、新自由主義(市場原理主義)が席巻することによって、絶対貧困層を増大させ、この絶対貧困層は次世代労働者を供給することが不能となっている。新自由主義経済下で不安定な雇用関係や労働状況にある非正規雇用者や失業者を、precario(不安定な) Proletariato(無産階級)という意味のプレカリアート(伊precariato)という造語で総称することがあるが、これは、まさしく新たに爆発的に増大しつつある絶対貧困層のことである。

結婚、出産、育児という過程を経て、次世代労働者を社会に送り出す母体となる家族生活をすることが経済的貧困のためにできない。結婚ができない。出産ができない。育児ができないのである。これは将来における労働の供給不能という側面もさることながら、「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」(管子)ことができず、延いては家族の崩壊という由々しい事態を招く。そして、その貧困層の老齡化による社会福祉費の増大によって、資本家と富裕労働者層との協力循環の規模は縮小し、労働運動は絶対貧困層についてのみ生き続け、より過激な方向になるであろう。「格差社会」というのは、労働者層の二極化のことであり、マルクスが予測しえなかつた新たな「窮乏化理論」が登場しうる社会となりつつあるのである。

ところが、前述したとほり、現在の経済学は、これを是正するための経済思想や経済理論の構築を放棄している。そのため、新自由主義(市場原理主義)に対する歯止めがないまま、生産至上主義がさらに増殖し続けるのである。≫ 

このような問題の根底にはグローバリゼーションによる影響が大きい。日本の製造業が海外に移転し、日本の労働者は行き場を失っている。その他、賭博経済により、労働者を単なるモノとしか見ない風潮があり、株主の方が従業員よりも重宝されるようになった。この有り様は日本人としては全く受け入れがたい。この問題の抜本的な改善には自立再生社会の実現が欠かせない。日本人はかつてすべての物を何らかの形で活かすということを考えてきた。この発想は社会における人材にも適用されるだろう。全ての人が能力に応じて何らかの役目を果たし、生きることができる社会が実現してほしい。


引用箇所
南出喜久治著 『まほらまと』
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