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産声と感謝 (2)

うぶこゑを かたじけなくも すこやかに いはひまつりし ひとのよのたび
(産声を 忝なくも 健やかに 齋ひ祀りし 人の世の旅)


産声と感謝…(1)

 世界宗教というのは、その本能原理を知らずして、秩序維持のために精神的な去勢をして「奴隷道徳」を強いるのです。秩序維持は確かに本能の方向ではありますが、その方法論が誤っています。奴隷道徳で無理矢理に抑制するから、却って個人の自己保存本能が反発的に強く働くことになります。これも本能の働きです。本能を否定する方向に向かえば、それを復元しようとして、その本能がより強化されるからです。そして、この個人個人に向けられた奴隷道徳があまりにも強くなり、がんじがらめになって身動きができなくなると、本能の健全さは失はれ、個人の自己保存本能は歪んだ方向へと進むことがあります。フックの法則(バネの法則)のように、バネの歪みが大きくなれば復元力が強く働きますが、歪みが限界を超えるとバネが壊れるのです。それがルサンチマンです。

 ルサンチマンとは、ニーチェの用語で、怨恨とか復讐感情と呼ばれるもので、奴隷道徳によって内攻的に鬱積した抑圧心理のことです。本来、道徳とは、生命の根源からくる力強いものであり、本能から生まれる秩序の規範です。家族や社会などの種内秩序は、本能によって形成されます。そして、秩序は必然的に強者と弱者を形成します。強者は弱者に服従も求め、弱者は強者に保護を求めます。この強者と弱者の相互関係が本能による秩序です。ところが、強者が弱者に絶対服従だけを求めて、弱者への保護が希薄になるか皆無になると、弱者が強者に対する反感を持ち続けます。これがルサンチマンの原型です。ニーチェは、キリスト教が奴隷道徳を押し付け、ルサンチマンを生じさせたと批判しました。ニーチェは、さらに、民主主義をも奴隷道徳の産物であると批判しましたが、永遠回帰(永劫回帰)という観念に囚はれたまま、ついに祭祀の視点には到達できなかったのです。おそらくは、祭祀を重んじたケルト人やゲルマン人が祭祀を否定するキリスト教へと改宗する過程で、祭祀の心も形も忘れてしまった結果と思われます。

 キリスト教では、強者(教皇、神父)は弱者(人民)を硬直化した教会組織の序列での最下位に置いて、弱者に絶対服従を求め、信仰に対して一切の疑問を持つことを禁止しました。信仰や救いに疑いを持つことは、信仰を否定することだと脅迫するのです。人が物事に疑問を持つことは本能の働きです。その物事が自分にとって安全で有益なものか否かを吟味することは生命の維持にとって必要なことだからです。その宗教や信仰のあり方に日々疑問を持つことも健全な本能の働きです。ところが、教えを疑ったり否定すれば地獄に落ちると脅して、疑はないことが強い信仰であるとのブラフと脅しで人の心をつなぎ止めます。つまり、本能の働きである疑う心を捨てろというのです。科学の発達は、この本能の働きである疑う心がもたらしたものですが、これとは逆に、疑いの心を捨てさせ、本能を極度に低下させ抑圧するのです。仏教も、地獄に落ちると脅して、キリスト教とよく似た手法で疑いを捨てさせ本能を低下させる方法をとります。

 このような構造から憎悪や怨念が生まれてくるのです。これは一般的な憎悪や怨念のことですが、とりわけ、近親者に対する憎悪の場合は、愛情の裏返しであり、愛情を受けることの強い期待が裏切られたことなどによっても生じます。親に対しても同様で、事情によっては恨んでも仕方ないこともあるのですが、その恨みが生じるのは、生まれた直後ではなく、例外なく、物心が付いてきてからです。

 人が誕生するとき、仏教では「生苦」にまみれることになりますが、果たして本当にそうでしょうか。新生児は、生まれるとき「産声」をあげます。これを「泣く」として、悲しみ、苦しみのためだとして、だから生苦と考えたのかも知れません。しかし、人が泣くのは喜びのときもあります。我が国では、新生児が「泣く」とはあまり言いません。「産声(初声。うぶごゑ)をあげる」と言って、喜びと感じるのです。医学的に言えば、出生により母体から酸素供給されなくなると、新生児の体内の血液内に二酸化炭素がたまります。この二酸化炭素濃度の急激な上昇が呼吸中枢を刺激して最初の吸気が起こります。そして、これに続いて呼気が起こります。この呼気が産声となるのです。そして、連続して呼気と吸気を繰り返すためには、呼気を強める必要があります。そうすれば自然と吸気も強まるからです。この呼気を強める呼吸方法は泣くときと同じ方法です。泣くときは連続して沢山の呼気が必要となるからです。ですから、呼気を強める呼吸方法の産声が「泣く」ときと同じ行為となるのです。決して悲しいとか苦しいので泣くのではありません。しかも、新生児は、こんな医学的な知識によって理性的に判断して呼気を強めて産声を上げるのではありません。これは紛れもなく本能の働きなのです。

 人が生まれて初めて行うこと、それは産声であり本能の働きです。そこに祭祀の原点があります。だから言霊として声を発する必要があるのです。産声こそ、生まれたことの喜びと感謝の祝詞なのです。古事記では、「むす」と「うぶ」という言葉が生命力の根源となる言葉として用いられています。いずれも漢字では「産」とか「生」を当てます。それゆえ、誰であっても例外なく、喜びと感謝で誕生したのであり、怨念や生苦を抱いて生まれた人は誰一人いません。怨念や憎悪は後天的なものだからです。これも一つの例外もありません。ですから、この世に生を享けたことの喜びと、その縁起を得た両親への感謝は、仮に、その後に成長して理性の働きによって怨念と憎悪が生じたとしても、「両立」できる関係にあります。仏教でも、「煩悩あれば菩提あり」と言い、迷いがあって初めて悟りがあるとしています。感謝と怨念とは別のものであり、怨んでも感謝はできるのです。親を理性的に憎悪する人であっても、本能的な感謝はできるのです。そのような人こそ祭祀の神髄が理解できる最も近い立場にあると言えます。


青少年のための連載講座【祭祀の道】編
第七回 産声と感謝 より一部抜粋
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