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祭祀の道 第40回 祭祀の構造 UPされました



7月2日に塾HPで公開されました 祭祀の道 第40回 祭祀の構造  
こちらには、今のかな使いの物、一部読み仮名をつけたものを貼らせていただきます。



くちすぎの きものたばねは つちとみづ うぶすなかみと みくまりのかみ
(生計の 肝の束は 土と水 産土神と 水分の神)

 氏神(うじがみ)とは何ですか。産土神(うぶすながみ)とは何ですか。守り神(守護神)とか鎮守神(ちんじゅがみ)というのは何ですか。
 それに、海の神、山の神、河の神、水分の神(みくまりのかみ)、田の神とか、いろいろありますが、今ではその区別ができないと説明されています。
 区別ができない理由は、そのような信仰が薄らいだこともありますが、神仏同体や神仏混淆が進み、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)や反本地垂迹説(はんほんちすいじゃくせつ)が出てきて、神仏習合が定着したことにもあります。

 仏教受容問題の最中に、用明天皇は、「佛法を信じ、神道を尊ぶ」とされ、推古天皇も「祭祀神祇、豈有怠乎」(あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや)と御詔勅(ごしょうちょく)を宣われたとおり、我が国は「祭祀の国」です。

 我が国が仏教を受容したのは、「仏」を受け入れたというよりは、「仏教文化」を受け入れたことが重要なのです。仏教文化は、建築、工芸、美術、経典学問など社会と生活の広い範囲にまたがり、これによって中央集権による統一国家の素地ができたからです。しかし、国家統治の方法は、仏教文化からは導かれないため、仏教文化とは無縁の律令制を導入したのです。

 ところが、第三十七回(記紀と祭祀)でも述べましたが、仏教を受容し律令制を導入する過程の中で、祭祀の中心施設であった神社が宗教的に変質します。その変質した信仰体系が神社神道です。祭祀と神道との決定的な違いは、父母から御先祖を遡って皇祖皇宗、さらに八百万の神々に至るという「命の階段」を基軸とするか否かにあります。

 特定の神々を御祭神とすることは、神社の宗教化への第一歩となりました。「延喜式神名帳」によると、これに記載された神社(式内社)は、官社として認められていた神社だけであり、これに記載されない式外社(しきげしゃ)も多く存在していたのです。
 式外社には、いろいろな種類と性質がありますが、正式な社殿のない多くの神社も含まれていたのです。正式な社殿のない神社とは、祭祀の原型を留める神社、すなわち、「祭祀施設」のことです。その当時は、清浄なる自然物(木、岩、滝など)を神霊の依代(よりしろ)、御霊代(みたましろ)として祭祀がなされていたのです。祭祀には、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀などかあります。その都度、祭祀の目的と種類は違っても、同じ場所で行ったり、目的と種類ごとに場所を選んで祭祀を行ってきたのです。

 ですから、本来は、祭祀を行うについて、今のような常設の神殿設備はなかったのです。その都度、結界(潔戒(けっかい))を設けて祭祀を行ってきたのです。それが、伊勢の皇大神宮の式年遷宮として名残りを留めています。神が宿る場所は、常に清浄で新鮮でなければならないとする古代人の感性です。
 ところが、律令制の神祇官の指導によって常設神殿を設け、神社形式の神社造営を行い、特定の御祭神を祭るという方法が浸透して行きました。これは、仏教寺院が、常設寺院を設け、仏教刑死の寺院造営を行い、特定の本尊を祭るという方法と相似形になっています。神社は、寺院に対して対抗するために、同じような道を歩んだということです。

 形式を真似るとその本質にも影響が出てきます。神社神道が祭祀の道を守ろうとしても、形が仏教と同じ宗教形式になっていると、だんだんと宗教化します。この時代としては、やむを得ないことと言えますが、かくして神社神道は宗教化して行ったのです。

 これは祭祀の危機、祭祀受難の現象であると認識することもできますが、ところが、そうとは言い切れないのです。それは、神仏混淆(しんぶつこんこう)、神仏習合が進んだことが、別の意味を持っているということなのです。一般には、神仏習合は、神道の変質、仏教の変質とされていますが、決してそうではありません。

 意外と思われるでしょうが、なんと、神仏混淆(しんぶつこんこう)や神仏習合は、祭祀を守り続けてくれた制度だったのです。第十二回(自然祭祀)で述べたことをもう一度読み返してみてください。
 ここには、稲作と祭祀が一体であつたことを述べてゐます。そして、稲作が祭祀と一体であるのは、我が国だけではないことを次のとおり説明しました。

 稲作発祥の地とされる支那の雲南省や貴州省などの山岳地帯に暮らすハニ族、タイ族、ミャオ族などの少数民族には、初穂に稲魂が宿り、それと祖霊とが一つとなるとの信仰、いわゆる稲魂信仰(いなだましんこう)というものがあります。そして、我が国と同様に、その地にも仏教が伝来したのですが、稲魂信仰(いなだましんこう)は生き残りました。つまり、稲魂は釈迦よりも上に位置する存在と理解されたのです。
 イネの歴史は、ほとけ(穂外毛)を少なくして穂(稲霊、祖霊、神)を実らしてきたのですが、我が国の歴史はそうではなかったのです。我が国では、仏が本源であり神がその現象であるとする本地垂迹説による神仏習合に至って祭祀が衰退しましたが、ハニ族らは稲魂信仰を維持して祭祀を守りました。このことは、我々としてはこれからでも祭祀復興のための模範とする必要があります。

 どうでしょうか。神仏混淆や神仏習合の現象は、確かに祭祀を衰退させたものの、それは逆に祭祀を全否定しないことでもあったのです。祭祀を細く長く守るためにあったと言えるのです。外来の思想を祭祀の中に取り込むことによって、祭祀の本質だけは守り続けたことになります。祭祀と宗教とは、そもそも異質です。ですから、両者が不倶戴天の敵として対立すれば、力関係によって祭祀が滅ぼされることになります。ケルト人の悲劇は、まさに暴力的な一神教の力に対して力で対抗した結果でした。パリのセーヌ川の中州にあるシテ島は、ケルト人の祭祀を行う中央施設があった場所ですが、いまでは見る影もありません。カエサルの『ガリア戦記』は、このケルト人(ガリア人)の悲劇を物語るものです。ケルト人と同じく祭祀の民であったゲルマン人は、このケルト人の悲劇から祭祀の道を守るため、キリスト教による弾圧に対して、屈辱的な「服従」を受け入れ、「韓信の股潜り」をしてまで祭祀を辛うじて守ったと言えます。ドイツがヨーロッパの盟主として再興しなければならないのは、ケルト人の祭祀を承継できる中核的な民族国家となるべき使命があるからです。

 ですから、キリスト教であれば、祭祀について全く不寛容なプロテスタント世界よりも、祖先崇拝を受容しうるカトリック世界の方が祭祀復活の可能性がありますし、そのことは仏教教団についても同様です。信徒を騙しながら、祭祀否定、天皇否定の教義を持つ浄土真宗教団その他の仏教宗派は全く論外ですが、祖先祭祀を受け入れる仏教教団であれば、祭祀の道を復興させる環境があるのです。

 ですから、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動や神仏分離令などは、祭祀の道の復活を願う者にとっては謬(びゅう)論(ろん)であり愚策の極地であって、最悪の事態であると言えます。神仏混淆や神仏習合は、長い目で見れば、神社神道と仏教の堕落と矛盾を明らかにし、祭祀復興の光明となるものであつて、大いに望ましい方向なのです。

 ですから、今こそ、祭祀の復活のためには、祭祀を否定しない神社や寺院が少しでも多く存続することが大切となります。祭祀を行うことができる施設が少しでも多く存在することは、それが祭祀実践の施設となり、祭祀復興の道が開かれるからです。神社でも寺院でも、祖先の慰霊祭、祖先供養、法事など様々な方法により祭祀を復興して行く施設が多くあればよいのです。

 祭祀には、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀があります。これらは不可分一体のものですが、祭礼儀式としてはそれぞれ区別しなければなりません。おそらく、祖先祭祀は氏神信仰、自然祭祀は産土神信仰(うぶすながみしんこう)、英霊祭祀は守り神信仰(守護神信仰)に対応するものです。氏神信仰とは、まさに祖先祭祀の実践であり、産土神信仰とは、祖先から我々、そして子孫に至るまで、その命を受け継いできた自然の恵みに感謝する自然祭祀の実践です。そして、祖国や郷土を外敵や自然災害から救っていただいた英傑や英霊などを讃へ、その霊力を受け継いで自らも祖国と郷土を守ることを誓うために、英霊祭祀の実践をしなければなりません。

 このように祭祀の構造について目覚めれば、これまで区別がつかないとされてきた、氏神、産土神、守り神は、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀に対応するものと認識できるのです。この区別と祭祀の構造を自覚し、これにゆかりのある全国の神社仏閣などで、それぞれの祭祀を日々実践することが、我々にとって今一番大切なことと言えます。
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