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占領憲法とはその本質からして講和条約である


一部の改憲論者は真正護憲論と旧無効論の区別もあいまいにし、真正護憲論が法的安定性を害する論理であるかのごとく伝えるが、これは非常に困ったことである。何度も述べているが、真正護憲論は占領憲法を憲法としては無効であるとしても、無効規範の転換理論により、帝国憲法に矛盾しない範囲においては有効と評価されるのである。これにより、占領憲法は「憲法臨時代用法」として一時的に認められ、時間を経て帝国憲法が復元されるのである。このように移行へのプロセスもきちんと述べている。なぜ、このようなことが可能なのか。それは占領憲法が制定当初から実質的には講和条約であり、そのことを当時の政治家が気づいていたからである。ここに占領憲法の正体ありき。国民もそろそろ全員がこの事実に気づこうではないか。以下、南出喜久治氏の文章を引用した。

≪この占領憲法制定過程において、当初から外務大臣、そして内閣総理大臣として深く関与してきた吉田茂は、「・・・改正草案が出来るまでの過程をみると、わが方にとっては、実際上、外国との条約締結の交渉と相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層”渉外的”ですらあったともいえよう。ところで、この交渉における双方の立場であるが、一言でいうならば、日本政府の方は、言わば消極的であり、漸進主義であったのに対し、総司令部の方は、積極的であり、抜本的急進的であったわけだ。」(吉田茂『回想十年』第二巻)と回想しているとおり、まさに占領憲法は、交渉当事者の認識としても「外国との条約締結の交渉」としての実態があったということである。つまり、占領憲法制定作業は、政府とGHQの二者間のみの交渉によってなされ、政府は常にGHQの方のみを向いて交渉し、帝国議会や臣民の方を向いていなかったことから、占領憲法は、国内法としての憲法ではなく、国際法としての講和条約であったということである。

5 このことは、何も交渉当事者であつた吉田茂だけの感覚や評価に限られたものではなかった。たとえば、上山春平(京都大学名誉教授)は、『大東亜戦争の思想史的意義』の中で、「あの憲法は、一種の国際契約だと思います。」と述べており、有倉遼吉(元早稲田大学法学部教授)も占領憲法が講和大権の特殊性によって合法的に制定されたとする見解を示していたこともあったのである。

6 同様に、昭和二十九年三月二十二日の衆議院外務委員会公聴会において、外交官大橋忠一議員の発言にも注目すべきものがある。大橋忠一議員は、第二次近衛内閣当時の外務次官を務め、また、昭和十五年十一月に松岡外務大臣のもとで外務次官となって日米交渉に携わった外交官であるが、この衆議院外務委員会公聴会において、「GHQの重圧のもとにできた憲法、あるいは法律というものは、ある意味においてポツダム宣言のもとにできた政令に似た性格を持ったもの」という発言をしている。長く外交官を務めた者の判断として、占領憲法は、ポツダム宣言に根拠を持つ下位の法令であるとしているのである。

7 また、吉田茂の第一次内閣発足直後の枢密院審議において、吉田は、「GHQとは、Go Home Quicklyの略語だという人もいる。GHQに早く帰ってもらうためにも、一刻も早く憲法を成立させたい。」と発言して、これが講和の条件として制定する趣旨であることを枢密院に説明し、枢密院は講和独立のためという動機と目的のために帝国憲法改正案を諮詢したことになり、講和条約の承認としての実体があったことになる。

8 さらに、吉田茂は、占領憲法が「新日本建設の礎」となるとして、それを与えてくれたマッカーサーに感謝の書簡を出している。それを与えてくれたというのは、まさに講和条約を受け入れたということであり、独自の憲法であれば、それをマッカーサーが与えてくれたと感謝する必要もないのである。≫

引用箇所
南出喜久治著『はらひしたまへ』(夏に発売!!)

 
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