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奴隷病の克服

筆者は、4月21日、チャンネル桜にて放送された「討論!どうする日本国憲法!?連続大討論Part1」に続き、翌週放送された「Part2」も視聴した。残念ながら、パネラーが総入れ替えとなり、南出喜久治氏はこの回には出演していなかった。

「Part2」の特徴は「9条護憲派」が2名参加していたことであった。もちろん、これにより、「Part1」で南出氏が提唱した占領憲法の効力論争は全く行われず、護憲か改憲かの議論に終始してしまった。これは非常に残念なことである。そもそも、無効であるこの「憲法」と称する講和条約をもっぱら憲法であるとして論じていたからだ。果たして、このような議論で、国柄を護ることができるであろうか。

討論の中で、9条護憲派は案の定占領憲法を平和憲法と認識し、9条の必要性を力説する一方で、改憲派は国防的観点からのみならず、伝統を守るという観点からも占領憲法が国柄を反映しておらず、改正、または自主憲法が必要だと論じた。9条護憲派に対しては、本当に占領憲法で平和が維持されているのかをもう一度問うてもらいたい。一方、改憲派に対しては、そこまで言うのなら、なぜ占領憲法が無効であり、帝国憲法の現存確認をしようと言わないのか、と問いたい。非常に残念なことであるが、やはり、改憲派には志と勇気が足りないとしか言いようがない。ぜひ、以下の南出喜久治氏の文章を読み、改心してもらいたい。

≪それには、まず、我々はいまもなお帝国憲法秩序の下での「臣民」であるという「意識の復元」という意識改革から始めなければならない。志と勇気を持つことである。この「認識の復元」と「意識の復元」がなければ、国家としての矜恃を回復することはできず、国の内外に山積する諸問題に対して、これまで通りの閉塞情況から脱却することはできない。占領憲法を最高規範であるとする歪んだ認識は、占領統治の重度の後遺症であり、未だに「蚤の曲芸」を受け入れ、「ハーメルンの笛吹き男」が跋扈する情況を続けることになる。似非護憲論(改正反対護憲論)は論外であるが、似非改憲論(改正贊成護憲論)もまた病膏肓に入って国家百年の大計を破壊する。占領憲法に対しては、その文言表現と内容、それに解釈などで批判したり揶揄するだけで、所詮は負け犬根性に支配されているのが似非改憲論者である。彼らは、真実を知らない愚者か、真実を知っていてもそれを語る勇気がなく、日和見、卑怯、卑劣な保身の亡者か、あるいは祖国再生の志を捨てた確信犯的な反日思想の亡者かのいずれかである。自覚症状に気付かない似非改憲論者は、敵が己自身であるのに、己以外の者であると錯覚している。似非護憲論が敵だという錯覚である。しかし、似非改憲論は似非護憲論と反日兄弟であることに気付かない。己自身が反日思想に毒されているのに、その「内なる敵」と闘うことができない重篤なる奴隷病に冒されている。

その病膏肓の最たるものは、現在の我が国の繁栄と平和は占領憲法がもたらしたものであるとの迷信である。戦後の日本人の多くは、厭戦気分が昂じて、占領憲法は「平和憲法」であるという曲学阿世の憲法学者らの戯言を信じ込んできた。それゆえ、多くの人は、無效論なるものは時代錯誤の「天皇主権」を認める驚天動地の危険思想であるとの誤解を刷り込まれてきたのである。

敗戦利得者である憲法学者は、占領憲法制定当時に、八月革命説が麻疹的に流行したことから、集団ヒステリー状態となって、これまでの学説をかなぐり捨てて占領憲法を憲法として有效であると主張してしまったのであるが、その八月革命説が破綻したと認められた今日においては、もし学者としての良心があるならば、占領期の稚拙な論理によって思考停止していたことを真摯に反省し、これを乗り越えて、占領憲法が憲法としての妥当性と実效性があったのか、正統性があるのか、ということなどの再検討を行う学問的な責務がある。ところが、これをすることが自己の社会的地位を喪失することになるとの恐怖感から、無效論を無視し続けて学者の良心を放棄するのである。これは、「飛べない」と錯覚した蚤ではなく、「飛ばない」と自己決定した蚤であり、我が国が再生するについての最大の抵抗勢力である。

いずれにせよ、これまでの平和というのは、東西冷戦構造の中でアメリカの核の傘という庇護の下で、均衡的平和が実現したまでであって、決して占領憲法があったから平和であったのではない。占領憲法は、「平和憲法」などでは決してない。「平和創出憲法」ではなく、いわば「平和時限定憲法」、つまり、平和時でなければ通用しないものという意味しかない。占領憲法には紛争解決能力がないのである。そもそも、経済復興と繁栄がもたらされたのは、東西冷戦構造における西側の軍産分業体制の所産であり、特に、朝鮮戦争特需がその起爆剤となったにすぎない。そして、この経済復興に醉いしれ、祖先が築き学げてきた精神文化を蔑ろにし、国体護持という悠久の大義に生きることを侮ってひたすら功利を求めてきた。GHQの暴力と詐術によって制定された占領憲法を「平和憲法」などとは笑止である。占領憲法を平和憲法と云い、国民主権を真理だと信じて何も疑わない。これらの言葉は「記号化」された思考停止の「呪文」である。武装放棄を理想とするのは、囚人の憲法、奴隷憲法、サファリパーク憲法であり、ニーチェのいう奴隷道(ルサンチマン)の終着駅である。

清貧を嘲り、消費の拡大を美であると錯覚し、奢侈を豊かさの指標とする経済学がもてはやされている。ようやく「国益」ということが叫ばれるようになったが、その殆どの意味は経済的利益の追求であり、祖国と祖先の名誉ではない。

「玩人失、玩物喪志」という言葉がある。「人ヲ玩ベバヲ失ヒ、物ヲ玩ベバ志ヲ喪フ」(書経)ということで、経済復興だけを追い求め、精神復興を怠った「愚か者」を戒める言葉である。また、「怠け者」という意味の「レーニン」というペンネームを持つウラジミール・イリッチ・ウリヤーノフは、「その国の青少年に祖国呪詛の精神を植えつけ、国家への忠誠心と希望の燈を消すことが革命への近道である」と予言したとおり、その近道を我が国は歩んでいる。この「怠け者」によって「愚か者」が導かれ、自らも怠け者となって、そのと志が吸い取られてきた。それゆえ、無效論によれば法的安定性が否定されるか否か、という真摯な課題を、愚か者と怠け者たちは心配しているのではない。単に愚か者と怠け者が安逸を貪るための御託を並べ立てているに過ぎないのである。
それゆえ、真正護憲論(新無效論)によって、この精神の復興を果たし神洲正気の自覚に立つことによってのみ祖国は再生できることを自覚し、その志と勇気を持って、帝国憲法秩序を我々と将来の子孫のために、改めてどのような法体系秩序として改善する必要があるのかを検討して建白しなければならない。その道筋が「復元」の意味するところである。そして、この章では、さらに、復元の際に是正すべき事項を検討するに際して、これまでの統治原理自体もその対象とし、具体的な提案を行うことになる。≫

引用箇所
南出喜久治著『國體護持總論 第五章』  
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とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
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