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産声と感謝

うぶこゑを かたじけなくも すこやかに いはひまつりし ひとのよのたび
(産声を 忝なくも 健やかに 齋ひ祀りし 人の世の旅)


 殆どの人は、お父さん、お母さんに対して感謝の心を持っています。しかし、持っていない人も居ます。それどころか恨みすら抱いて居る人も居ます。私の周りにも居ます。

 何かの事情があって捨てられて孤児院で生活したり、育児放棄をされたり、虐待を受けたり、一人の子供だけをえこひいきに偏愛することによる兄弟間の憎しみと嫉妬が、その原因を作った親に向けられて、親に対する転嫁報復(逆恨み)の感情となったり、介護や遺産をめぐる争いと不満などで、親を憎んだり恨んだり妬んだりする人が居ます。子供のころは、ほんの些細なことで親や兄弟を恨んだり妬んだりすることがありますが、成長するに従ってそれが無くなるのが殆どですが、中には、それが大きくなってさらに激しくなる人も居ます。

(途中省略)
そもそも、本能を悪とし、理性を善とすることにおいては、宗教も近代合理主義(理性論)も全く同じです。しかし、理性論が誤りであることは繰り返し述べてきたとおりであり、本能こそが善なのです。
正確には、本能に適合すること、本能適合性があることが善なのです。そうすると、煩悩とは、本能に基づく「進歩への模索」であり、決して悪いことではありません。本能適合性があることが善ですから、煩悩は善なのです。そして、その煩悩を解決することも本能のプログラムの中にあるのです。それは、さらに本能を鍛えれば、もっと高次の本能が鍛えられて強化され、その本能によって解消するという仕組みがあるのです。
仏教では、「煩悩具足」、つまり、煩悩は本質的に身に備わって離れないものであるとするのに、その煩悩から解脱できるとするのですから、これは明らかな論理矛盾です。それゆえに、煩悩から解き放たれるのではなく(解脱するのではなく)、その煩悩を超える、もっと大きな煩悩を持つことによって、心に占める小さな煩悩の比重を小さくすることが心の安定に至るのです。


 たとえば、親に対する愛憎の葛藤という煩悩があるとすれば、それは自己保存本能に基づく煩悩ですから、それよりももっと大きな本能である、家族維持本能や、さらには社会維持本能、民族維持本能、国家防衛本能を強化させて、その本能による煩悩へと転換させて解決するのです。
つまり、より強い本能による「進歩への模索」という煩悩に転換すればよいのです。親に対する不満があるのなら、その煩悩は自己保存本能によるものですから、自分が親となったとき、自分の子に同じような不満を持たれないように子供を鍛えて慈しむことの煩悩、つまり、家族維持本能による進歩への模索に専念することです。
また、社会貢献や祖国再生運動に身を挺することによって、民族維持本能、国家防衛本能による進歩への模索をすることになり、小さな煩悩は大きな煩悩の前で解消されて行きます。
つまり、欲望をなくせというのではなく、もっと大きな欲望を持てということです。「無欲」となることではなく、自己を救う「小欲」よりも家族を救う「中欲」を、国家を救う「大欲」を、そして世界を救う「無限の欲」を抱くことによって魂の安静が得られるのです。
「無欲」になることは生命力を完全に否定することであり、「無限欲」を持つことは生命力を完全に肯定することを意味します。


青少年のための連載講座【祭祀の道】編
第七回 産声と感謝 より一部抜粋 
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