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疑似祭祀と国教

占領憲法下の日本人は国民主権を当然のものと勘違いし、自己中心的になり、その膨張しすぎた自我により自らの精神を病んでいる。しかし、国民主権とは元来我が国とはまったく無縁のものであることが意外に知られていない。以下、南出喜久治先生の言葉を引用した。確認していただきたい。

「歴史的に見れば、革命国家や不真正伝統国家においては、国教を定めたことがあったが、この現象はどのように説明しうるのであろうか。国教を設けようとする動機の源泉は、国教という「疑似祭祀」を設けることによって、本来の国家である伝統国家(自然国家)に近づこうとする革命国家の自己保存本能といえる。
                    

しかし、教会との対立やその権威の失墜などによって国家の正当性が揺らいでくると、今度は抽象的にその絶対神から直接に統治権(世襲王権)を授与されたとする思想「王権神授説」が登場する。ところが、宗教論争や信仰の自由を求める主張、さらに宗教戦争などによって国教制度が維持できなくなった段階において、今度は、国教制度に拠らずともその絶対神に代わる正当性の根拠を模索することになる。それが「主権論」である。
                    

そして、その主権の帰属が国王にあるとするのが「君主主権論」となり、その後、君主から主権の帰属が国民に移譲され、あるいは奪取されて「国民主権論」へと移行するのである。これは、人間を越え人智の及ばない存在としてのこれまでの神ではなく、人間自らが神となった瞬間であった。
                    

かくして、革命国家では「主権論」が、伝統国家では「国体論」が支配することになる。つまり、祭祀を重視すれば国体論となり、これを主権論となるのは必然である。(中略)そして、我が国は典型的な伝統国家として祭祀部門における祭祀主宰者たる「すめらみこと」と統治部門における統治主宰者たる「天皇」という国家機関を有しており、「すめらみこと」が常に「天皇」を兼務されておられる。
                    

そして、祭祀主宰者の有する権能である「祭祀大権」は国家の正当性を根拠づけるものであり、これこそが、国家の合法性の所在となる統治主宰者の権能である「統治大権」の源泉となる。」

このことをしっかりと肝に銘じられ、安易な西洋の国家観を我が国にあてはめないようにしてください。

南出喜久治 著『占領憲法の正體』21頁から25頁を参照
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