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祭祀の道 第36回 UPしました -2/2

昨日に続いて 祭祀の道 後半を上げさせていただきます。

 元の文はこちら → 國體護持塾 HP

(青少年のための連載講座) 祭祀の道

           第三十六回 大和心と祭祀

                    南出喜久治
                    平成二十四年三月一日記す


おやかみを いつくこゝろの まめしさは やまとこゝろの まなかにそびゆ
(祖を 齋く心の 忠實さは 大和心の 眞中に聳ゆ)

 

 オーストリッチ(ostrich)はダチョウのことですが、この言葉には、現実逃避者(危険逃避者)とか、事なかれ主義者の意味があります。どうしてそんな意味があるのかというと、ダチョウは危機に遭遇すると砂の中に頭を隠すとの謬説(びゅうせつ;まちがった説)があったからです。今でもそれを真に受けている人も居ますが、動物の本能行動として、生命と身体を、より危険な状態に晒すような行為をするはずがありません。これは、ダチョウにとっては、余りにも事実とかけ離れた不名誉なことであり、迷惑千万な話です。

 しかし、どうも、ダチョウを罵った人間の方こそが、現実逃避者であるかも知れないのです。人間こそがオーストリッチ(ostrich)な生き物だということです。人間は、地獄に落ちるとの恐怖感に襲われたとき、砂の中に頭を隠すように、宗教の中に身を置いて不安を誤魔化し、神仏にすがってそのことを考えないようにするからです。
 ダチョウを見るたびに、そして、オーストリッチ(ostrich)の言葉を耳にする度に、根拠のない自惚れや独善思想、排外思想と拝外思想には、天に唾する愚かさがあり、これらもまたすべて「宗教」なのだと気付かせてくれるのです。

 人が作った観念の産物が宗教的な神仏であり、その作られた神仏から逆に人が作られたとするのが宗教の持つ最大の矛盾ですが、そのことを認識してはいけないし、そのような観念を捨て去って思考停止することを宗教(団体)は求めます。思考停止した状態のことを「信心」というのです。ところが、祭祀では、そんな矛盾はありません。

 宗教も様々なものがあり、そこで説かれる徳目も祭祀の立場から肯定できるものはたくさんありますが、御先祖の崇拝を否定し、あるいはこれを認めるとしても、ご本尊への信仰を最優先させることについては、すべての宗教に共通しています。
 祖先(祖霊)に従うか神仏に従うかの二者択一を迫まる究極の思考実験において、祖先(祖霊)をとるのか祭祀であり、神仏をとるのか宗教です。
 祭祀も宗教も、広い意味では信仰ですが、感謝から生まれたのが祭祀であり、恐怖から生まれたのか宗教です。この点が重要なのです。

 ですから、大和心は、宗教を起源とするものではなく、祭祀を起源とするものです。宗教は、「鰯の頭も信心から」と云はれるように様々なものがあります。世界には数え切れない数の宗教と宗教団体があります。もし、大和心が宗教を起源とするものであれば、宗教ごとに大和心があるはずです。しかし、大和心はそんなものではないのです。大和心は一つです。祭祀も一つです。それぞれ親は別々ですが、だれでも親が居て、そのまた親が居る、御先祖が居る、という真実は一つなのです。

 Aという宗教団体のaという神仏を信じ、aの救ひを受けてその子となつた人が、後になつて棄教し、Bという宗教団体のbといふ神仏を信じてbの救いを受けてその子になれるということがあります。いわゆる宗旨変えです。宗旨変えを否定することはできません。これは、信教の自由と呼ばれています。いつでもどこでもどんな神仏の救いでも受けられてその子になることができるということです。人が観念で神仏を作ったのですから、人はどんな神仏でも選べるわけです。自由というか、ご都合主義というか、そんなことが認められているのです。

 棄教されたAの側では、その人は棄教によって地獄に落ちると追い打ちをかけて脅かしますが、それは後の祭りです。そして、Bの側では、よくぞ勇気を出してAという邪教を棄教してBに入信したとして、そのことを褒められ、天国(極楽)行きを保証すると云ってくれます。しかし、その人が、aの神仏(の罰)によって地獄に落ちるのか、bの神仏の力によって天国(極楽)に行けるのか、一体誰が判定するのでしょうか。AもBも宗教団体の組織防衛のために、信者に対して飴と鞭を使い分けて脅したり褒めたりするだけで、それこそ神仏のみぞ知る真実において、誰が天国(極楽)に行き、誰が地獄に落ちるかという真相は全く解っていないのです。

 人が亡くなると、マスコミもそうですが、弔辞を述べる人が、「天国に召された○○さん」と口を揃えて故人の遺影に呼びかけます。たいていの宗教では、自殺すると地獄に落ちるとか、少なくとも天国には行けないとするのに、現代社会には、自殺、他殺、病死、事故死などを問わず、すべての人は天国に行くという「天国教」というものがあるみたいです。ところが、確証もないのにそのような言葉が吐かれる深層には、地獄に落ちることの恐怖が横たわっているのです。

 故人に「天国に行ってほしい」という希望と哀悼の気持ちはあるものの、その確証がないことから、「天国に行つたか地獄に落ちたかが解らない○○さん」とするのが本心のはずですが、決してそれをそのまま言葉に出しては云えないのです。ですから、それだけで弔辞はウソになるのです。
 しかし、祭祀の道を弁え(わきまえ)れば、こんなとき、故人に対して、嘘偽りなく心から「祖霊となられた○○さん」と呼びかければよいのです。

 祭祀の道は、感謝に始まり感謝に終わるので、御先祖様のみならず、その命の鎖を守り育んでもらった自然(産土など)やご英霊を大切にし、その命を受け継いでさらに子孫へと伝えることの勤めを自覚することですから、御先祖らに感謝の誠を捧げて日々祭祀を勤める子孫を御先祖が虐げるはずがありません。御先祖が、子孫に対し、地獄に落ちるぞと云って脅かすこともありません。

 親心というものは、仮に自らが地獄に落ちても子孫や祖国だけは守るものです。ご先祖や親や子供よりも自分だけが救われればよいとする宗教(個人主義思想)に毒されないのが親心です。もし、地獄に落ちれば、御先祖から受け継いだ永遠の命が地獄に落ちることになり、御先祖も一蓮托生になります。そんなことを御先祖が喜ばれるたり望んだりされるはずがありません。

 ですから、楠木正成、正季(まさすえ)兄弟の「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候ヘ」とする、七生滅敵(しちしょうめってき)、七生報国(しちしょうほうこく)の決意が祭祀の心です。退屈で怠惰な天国(極楽)で暮らすよりも地獄に落ちることを覚悟して滅私奉公のため再生を繰り返すことをひたすら祭祀を実践して祈り続けるのです。

 楠木兄弟、楠木親子が歩んだ道は、地侍の道であり、それは、自給自足による自立再生の道でした。これは祖先祭祀に「手作り」のものを手向けることであり、それを完璧に追求して行くと、自立再生の道につながるのです。経済的な観点からすると、分業体制から脱却することが自立再生(まほらまと)の道を歩むことになります。自給力を高め、自給率を上げるということは、物流的な意味において鎖国(制限貿易の究極)を目指すことですから、前に述べた排外思想、とりわけ、物質的に限った排外思想と似たところがあると思われるかも知れません。しかし、排外思想は「排外」そのものが目的であるのに対し、分業体制からの脱却(まほらまとの実現)は「自立」を目的とし、物質的排外はその結果にすぎません。

 昔、左翼思想がファッション化したとき、口先だけは左翼でも日常生活は保守であるとする「口先左翼の生活保守」といふ自嘲的な批判がありました。それと同じように、口汚く口先だけで排外的な言辞を露悪趣味的に唱える多くの人達の日常生活はどうかというと、衣食住のあらゆる生活面において、外国からの輸入品に頼って拝外生活をしているのです。いはば「口先排外の生活拝外」です。そんな人がいくら発言をしてところで、底が知れていますし、誰も相手にしません。大事なことは、祭祀とまほらまとを再生する強い志と勇気による実践です。
 御先祖に恥ずかしくない生き方。御先祖から「でかした!」と称讃される心根と生き様。民族本能の発現。御先祖を通じて皇祖皇宗へと遡ることができることの感動。ご皇室と國體を護持し続ける志と勇気。そして、その誇り。これらが大和心の真中にあり、これは祭祀の実践から湧き上がります。死しても御先祖の霊魂と一体になり、ともに子孫と国家の繁栄を見守ることの喜びを祭祀の実践によって味わうのです。

 これまで歴史的に解かれてきた万人の認める徳目や道徳律、人生訓などは、大和心を培うものであり、祭祀の道から当然に導かれるものです。これは万国に通ずるものであり、我々は、率先垂範して大和心を他の民族にも及ぼして世界に貢献すれば、真の意味で世界の恒久平和を実現できるのです。
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