スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自然に学ぶ

本日は國體護持塾の最終目標について知っていただきたく思います。我々は今のところ主として占領憲法の無効宣言と帝国憲法の現存確認を主張しておりますが、それは、国を護ることの第一歩にしかすぎず、実はより大きな目標があります。それが自立再生社会(まほらまと)の実現です。この考え方はグローバル化とは対極にあり、それぞれの地域の特性を護りながら、自然と共生した自己完結型社会のことです。その原点となる考えが以下の内容です。南出喜久治氏の著書から引用しました。また、引用の直後にはこれと関連する私の自然と教育をめぐる考えも述べさせていただきました。ぜひ、最後までお読みください。


≪地球は、人類だけではなく、生きとし生けるもの総ての生命の総体であり、複合的な生命の星である。地球上の総ての生命は、運命共同体の地球という大きな一乗の「オノコロシマ」という「宇宙船」に乗っている。今まで、余りにも人類中心の観点から「人権」が過度に強調され、人類の「生存権」のみが意識されてきた。さらに、祭祀を疎かにして宗教を受け入れたことから、「人類」を一つとみることなく、人種・民族・宗教などの区別と差別がなされて、さらに、同じ民族間でも、その差別は歴史的・社会的に細分化されていった。

これらは、人間以外の動植物は、人間の生存を維持するための「いけにえ」としてのみ存在するのだとする「人間中心主義」に由来する。これは人類の生存しか価値がないとする生命体間の差別思想であり、これが人間相互間の差別思想の原型となっている。この思想を契機として総ての差別化が促進されてきたことは歴史的事実である。これからは、人と地球を含めて、生きとし生けるもの総ての共生を実現しなければならない。

人は、その置かれている社会現象と環境の影響下で学習し教育を受けているのであるから、社会現象が歪めば学習と教育が歪み、人も歪む。社会現象は、社会実体の反映であり、社会現象の歪みは、社会実体の歪みであるから、これを是正するには、先ず、学習と教育の是正に取り組まなければならない。現代教育の大きな歪みは、現代社会の実体の歪みを直接に反映しているのである。

現代の教育制度は、学歴取得競争と就職競争に奉仕するものであって、これらの競争の自由を保障するものとして教育の機会均等を標榜しているに過ぎない。これらの競争の結果、勝者と敗者とに選別され、勝者は強者へ、敗者は弱者へと分化して、それが社会差別の形成要因となる。しかし、教育には競争原理が不可欠であって、これがなければ教育は成り立たない。ところが、その競争目的の設定を誤ると現代のように社会が荒廃する。現代教育の目的は、強者となって栄華を謳歌する「強者教育」であって、強者となって弱者を救済する「聖者教育」ではない。親が子供達に吹き込むのは、一流大学を出て一流会社や官庁に就職して他人よりも経済的に豊かな生活をすることが人生の目的であり、街で貧者を見かけたりすると、「勉強しないとあの人達のようになるから、しっかり勉強しなさい。」と差別意識と強迫觀念を植えつける。「勉強して立派になって、あの人達を助けることができるように、しっかり勉強しなさい。」とは教えないのである。教育の世界にも効用均衡理論を導入し、能力と人格・見識とが共に備はらなければ、あらゆる場面での指導的地位を与えられないとの教育理念を確立すべきである。いまこそ、「と官と相配し功と賞と相対す」(西郷南洲遺訓)という言葉に真摯に耳を傾けなければならない秋(とき)であり、教育の歪みが政治、経済、宗教など社会全般を歪め、世界を危機に陥れる原因であることを自覚せねばならない。

(中略)

教育に「教」あって「育」なく、宗教に「宗」あって「教」なく、政治に「政」あって「治」なき現代社会を打破して、人類が自己の教育・宗教・政治の原点を見つめ直して統合し、人類間の公平のみならず自然との共生を実現しなければ、地球は人類の利己によって崩壞する。今こそ、教育・宗教・政治を建て直し、共生の実踐として世界が自立再生の道を歩むことこそが地球を救う唯一の道であり、祖国日本は、至誠を貫き、率先垂範して国を経綸し、国体を護持して、その伝統による叡知と努力を世界に捧げて萬葉一統の理想世界を実現すべき責務がある。≫



今回の引用は南出氏の著書『國體護持総論』の完結部分である。教育の問題が取り上げられていることに特に注目していただきたい。今の日本の教育は大きな曲がり角に差し掛かっていると言われて久しいが、問題解決に至らないことの原因は、思うに、教育が自然に学ぶことを避けてきたからではないだろうか。つまり、こういうことである。自然は花も木も動物もそれぞれ独自の生命体として独自の生き方をする。しかし、それでいて、全体として見れば調和を醸し出し、美的ですらある。教育の目標もこうあらねばならないのではないだろうか。

子供は生まれながらにして他の子供と何かが異なる。この違いはもちろん人間としての範疇ではあるが、極めて自然な違いである。運動に長けた子、芸術に長けた子、利発な子、おとなしい子、人を笑わせるのが好きな子・・・・。千差万別である。この個性は子供の自然性である。だからこそ、これを大切にし自然なまま育んであげないといけない。もちろん、子供には、友達と切磋琢磨して一定方向をめざして競争しなければならない学び方もある。しかし、子供が大人になり花を咲かせるとき、自然と同じで様々な花であっていいのではないだろうか。

ただ、私が強調したいのは、その花には貴賤など存在しないということである。誰がチューリップとヒマワリに貴賤をつけることができようか。そこには主観的な好みの違いはあれど、貴賤などは絶対に存在しない。子供が大人になって働くときも、花の咲き方と同じである。確かに、非常に難しい仕事もあれば、比較的誰でもできる仕事もある。これにより、尊敬される度合いは異なるかもしれない。しかし、絶対に貴賤はない。なぜなら、それぞれの職業がまるで生態系の一つであるかのように社会の一コマを構成しているからである。これこそが自然と同じく社会の調和であり、美である。職に貴賎なし。皆が同じ一つの花になろうとしてはならない。自然とは千差万別であるからこそどこまでも美しいのである。教育と社会も自然と同じであってほしい。
 
引用箇所 南出喜久治著 「まほらまと」 
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。