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数え年と暦 =立春は二十四節季の中で最も重要な節分です=

今日は2月3日 立春の日 ですね。
國體護持塾がある京都(関西地方)では、この日に巻きずし1本を恵方に向って家族みんなで、だまって食べるという習慣があります。古来からの習慣ではないのですが、家族みんなでというのが最近では珍しい光景にもなってきましたので、ご家族みんなでというのもいいかもしれませんね。

この立春ですが、お正月(今年は1月23日)から近い日でもありますので、24回ある節分、二十四節季の中では一番重要な意味を持つ、季節の変わり目になります。

そんな立春の日ですので、2月1日に新しく祭祀の道が掲載されていますが ⇒
國體護持塾 HP 祭祀の道 2月
こちらのかな遣いを直した物は明日UPさせていただくことにいたして、南出喜久治先生が15年以上前に書かれた文章なのですが、お正月、節分のお話が載っていますので、転載いたします。原文の仮名遣いを直して、一部読み仮名をつけています。

原文はこちら ⇒ 國體護持塾 HP 各種論文 数え年と暦


数え年と暦

ひふみよいむなやこと。古代から、一(ひ)から十(と)までの数霊の全てを兼ね備えたのが人(ひと)とされてきました。「一から十まで」という表現は、今でも、始めから終わりまでという意味のように全事象を指し示す言葉として通用しています。我が国は、万葉集で山上憶良が詠ったように、「言霊の幸はふ國」であるとともに、このように「数霊の幸はふ國」でもあります。人々は季節の織りなす自然の中で生き、その暮らしや営みを支えるものを大切にしてきました。森羅万象は全て巡り巡って循環し、始めと終わりは表裏のものとして、特に、事物の始まりと終わりを神聖なものと認識して祭禮を執り行いました。そして、年、月、日、年号でも、その始め(初め)は一(元)であり、人の生まれの始め(初め)は一歳というように、人の暮らしと営みは農事と儀式の暦に従い、四季の移り変わりとともに月日を重ねてきました。

ところが、権力的干渉によってこの伝統文化が破壊され、人の年齢だけは、その生まれの初めを零歳とすることが法律で決められて今日に至っています。それは、年齢計算ニ関スル法律(明治三十五年)と年齢のとなえ方に関する法律(昭和二十四年)の二つの法律によるものです。

しかし、「いのち」は、母の胎内から始まり、出生から始まるものではありません。もし、年齢というものを「生命の年齢」、「生命年数」という意味に理解すれば、法律で強要された、いわゆる満年齢という数え方は、単に「出生後の生存年数」に過ぎず、「生命年数」とは全く異なります。現に、現代医学という名の施術を用いると、分娩を遅らせたり早めたりすることもできるし、意識が回復不能の状態でも生命維持装置を用いて限りなく延命することも、安楽死とか尊厳死という名でいのちの終わりを早めることもできるので、年齢を考えるにあたって、その始めも終わりも人為的に左右される満年齢という「出生後の生存年数」も決して正確なものではなく、殊更にこの年数に固執して年齢を表示する意味も薄らいでいます。

その点、伝統的な数え年は、もののはじめが一であるという数霊に適う(かなう)ものであると同時に、この「生命年数」の理念に最も近いものでした。受精から出生までの十月十日を出生時に一歳と認識して、その後の齢は暦計算に基づいて重ねていくものと捉えれば、生命年数の捉え方の理念としては最も合理性があると認められるからです。確かに、数え年という年齢計算は、科学的に正確な生命年数ではありませんが、太陽暦によっても、一年は三百六十五日ではなく、閏年や閏秒があることから、年齢計算を暦計算で行うことはやはり科学的には不正確と言わざるを得ません。

ともあれ、現在の法律では、人は生まれたときは零歳ということになります。何とも奇妙であり、その「零歳(れいさい)」という響きには、いかがわしさすら感じられます。一(ひ)から始まらない生存は「ひと」ではありません。また、胎児はそれ以前ですから、理屈からすればマイナス年齢で表示されることになり、人としては認識されなくなりました。胎児の命は軽んじられ、堕胎に歯止めがないに等しい昨今の風潮が生まれる素地がここにあるのではないでしょうか。

ところで、GHQの占領下では数多くの伝統破壊が行われましたが、伝統的な年齢計算が法律によって強引に否定されたのは戦前のことであり、いわば明治維新やその後の明治政府の施策によって、GHQによるものに勝るとも劣らないような伝統破壊や文化干渉がなされていることを忘れてはなりません。

数え年の廃止も暦に関連した大事件ですが、これに勝るとも劣らない最大の事件としては、明治五年の太陽暦改暦があります。明治政府は、欧米諸国と暦を共通することによる外交上や貿易などの便益から、従来までの太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)への改暦を決定し、旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年一月一日(元旦)とすることを僅か二十三日前に発表して改暦を行いました。改暦を行うことが仮に時代の趨勢としてこれに抗することができなかったとしても、何故この時期に行ったかということが問われなければなりません。

その理由は、一言で言えば、当時の政府が著しい財政難であったことが原因しています。つまり、旧暦によると翌年の明治六年には閏六月があり、十三ヶ月、三百八十四日となっていました。このままでは、官吏(公務員)の俸給(給料)を十三ヶ月分支払うことになります。そこで、旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年元旦とすれば、明治五年十二月は、一日と二日の二日間しかないので、この十二月分の給料を支払わずに済みますし、しかも、明治六年は十三ヶ月分の給料を支払うところを十二ヶ月分で済ませられるので、向こう一年で二ヶ月分の給料が節約できるとの計算から、そのように計画して実行したのです。

そもそも暦を決定する権限は、古今東西において「王権」に属するものであるにもかかわらず、財政的な理由や諸外国に迎合することを善とした文明開化という名の伝統破壊思想によって、大御稜威を簒奪し、改暦による文化的・社会的な悪影響を全く考慮せずに、暦という重要な國體的素因を無造作に変更してしまったという過ちは、決してぬぐい去ることのできない汚点と言わざるをえません。

近現代史の捉え方において、日本はいつでも悪いことをやってきた犯罪国家であるとするコミンテルン史観や東京裁判史観などは論外ですが、戦争に勝っているころ(明治時代)の日本は正しいが、昭和に入って負けてきたころ以降の日本は悪かったとする司馬遼太郎の歴史観にもほとほと呆れ果てます。これは、昭和初期から敗戦までの日本は日本でありながら日本ではないとする断絶史観です。戦前は悪で、戦後は善とする戦後保守思想もこれと同列のものです。歴史は連続しており、金太郎飴のように、どこを切ってみても「日本」なのです。こんな単細胞的な司馬史観などが最近ではもてはやされていますが、司馬遼太郎が大好きな、明るく逞しい(たくましい)明治維新や日清・日露戦争は、同じく大嫌いな、暗くて苦しい昭和史を作った最大の原因であったことを自覚すれば、歴史の評価においては、一時代に限って全肯定したり全否定したりすることが如何に愚かしいものであるかが解ります。光と影の双方を見つめなければ、歴史の立体構造を知ることができません。その意味でも明治維新や明治政府の施策を全肯定することも全否定することもできません。この改暦も、数え年の廃止も、明治維新を遂行した明治政府が、我が国の伝統を破壊して歴史に禍根を残している一例なのです。しかし、この改暦や数え年の廃止がもたらした功罪について、今まで誰も本格的に論じていなかったことが不思議でなりません。

ともあれ、我が国の歴史は、修理固成(おさめつくりかためなせ)の御神勅のとおり歩んで行くと信ずるがゆえに、この改暦による弊害はいつの日か治癒されると確信します。太陰太陽暦には、確かに難点はありましたが、決して致命的な欠陥はなく、実生活の面において多くの利点と効用があります。現代において、これを単純に復活させ、新暦を廃止せよというものではありませんが、せめて韓国のように、新暦と旧暦の併記併用を公式に認めさせるべきです。

そして、さらに旧暦の併記併用型の復活に際しては次のことが考慮されなければなりません。それは、新暦を従来どおり主たる暦として使用継続する場合であっても、元旦を立春とする古式伝統を復活させるべきではないか、ということです。そもそも、ユダヤ暦のような純粋な太陰暦ではなく、太陽の運行をも考慮した太陰太陽暦は、元旦を立春に近い日になるように定められており、理想としては、立春を元旦とすることでした。しかし、新月の日(月立ちの日、朔日)と満月の日(十五日)の限定から、どうしても元旦と立春とのズレを生じますが、我が国の古式伝統では、立春を元旦として新年新春を祝います。そして、今でも、地方では、立春を元旦とし、その前日の節分を大晦日とする風習が残っており、それは、正月(睦月)を春の初めとする日本書紀の記述に由来していると思われます。

「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳為天皇元年。」。これは、神武天皇が橿原の宮で践祚(せんそ)された神武肇國に関する日本書紀の記述部分です。中国暦(陰暦)の影響を強く受けた記述ではありますが、「春正月」(はるむつき)という表記は、立春を元旦(朔)としている意味と解釈できるからです。立春は、太陽の運行に基づき地球の北半球で観測した春の始まりであり、これが我が国の季節の始まり、年の始まり、暮らしと営みの始まりとして、二十四節気の内で最も重要なものです。この立春を暦の元基となる節日(基日、元日、元旦)するものが真の太陽暦なのです。戦前においてもこの神武肇國(ちょうこく)の記述から紀元節を何時と定めるかについて諸説があり、戦前から二月十一日となっていますが、立春とするのが自然な解釈のはずです。太陽の運行や節気とは無関係で何ら意味のない日に即位されたとする解釈の方が不自然でしょう。

ともあれ、「春正月朔」が立春であることから、正月の挨拶には、新年を「初春」、「迎春」、「新春」などの言葉で表現し、これが季語にもなっています。しかし、今の新暦では立春が二月四日(ころ)ですから、元旦は真冬であり、「春」ではないのです。一年は、春夏秋冬ではなく、冬春夏秋冬であり、冬が始めと終わりに跨った変則的なものとなっています。そして、冬なのに「初春」という季節はずれの挨拶や白々しい季語がまかり通るため、「言霊」と「数霊」が阻害され、この季節と暦の「ずれ」により人々は健全な季節感を失ってしまっているのです。

一年の始まりが正月(睦月)であり、それが春夏秋冬の季節の始まりの春であることからすれば、立春より約三十四日前の何ら意味のない日を元旦としている新暦よりも、農事暦でもある旧暦の方が季節感と合致しています。八十八夜とか、二百十日、二百二十日などという生活に密着したものも、立春から日数を数えますので、例え現在の太陽暦をそのまま継続採用するとしても、元旦を約三十四日ずらして立春を元旦とする暦へと変更すれば、これらの矛盾やズレはなくなり、季節の始まりは春であり、一年の始まりは春正月として、人々の暮らしと営みに伝統の智恵が蘇ることになるはずです。これは日本暦(真正太陽暦)の創設です。これは、戦前の国際連盟において、伊勢の皇太神宮を基点として、その真上の天空を通る子午線を基準とした真正太陽暦を採用したうえで立春を元旦とすることが検討されていたのですが、残念なことに、日本が昭和八年三月に国際連盟を脱退したことによってその採用が見送りとなったという経緯がありました。

そして、この真正太陽暦の採用と同時に、皇紀紀元の復活がなされなければなりません。皇紀紀元は日本暦(真正太陽暦)の創設と一体とならなければ歴史的意義が損なわれるからです。

ところで、現在広く用いられている西暦紀元は、ラテン語でアンノ・ド・ミニ(AD)、つまり、イエス・キリストが支配君臨している年数という意味のキリスト教紀元(基紀)であり、キリスト教国でない日本がこの宗教暦を無批判に受け入れ、国民にその使用を実質的に強制していることは、イスラム暦、ユダヤ暦、チベット暦など固有の紀元を採用している世界の国々などから顰蹙をかっています。キリスト教暦を受け入れていることは、キリスト教を国教として受容したものとみなされるからです。いわば、国民の全てがクリスチャンであると思われているのです。

また、アジアでも新暦のみで元旦を祝う国は日本だけで、多くの国では旧暦の元旦の方を盛大に祝っていますが、正常な季節感からすれば、旧暦元旦、もっと正確には立春を新春として祝う方が自然です。

このように、我が国の現状は、暦に関する文化的価値と宗教的意義について余りにも無頓着、無神経であり、二十一世紀だとか、ミレニアムなどと無邪気にはしゃいでいる姿は、誠に嘆かわしい限りです。

しかし、宗教暦の強制は憲法的にも許されませんので、一日も早くキリスト教暦(西暦)による基紀紀元を廃して皇紀紀元に改めるべきことは言うまでもありません。

ところで、この日本暦(真正太陽暦)は、さらに改良の余地はありますが、現在通用しているグレゴリオ暦(新暦)とは大きく矛盾しません。いわゆるサマータイムと同じ要領です。暦日が約三十四日ずれるに過ぎません。現在の元旦が我が国にとって全く意味のない日であるがゆえに、これを意味のある立春にしようとするものです。そして、これは、単なる古式伝統の復活ではなく、生活に密着した実利性の復活でもあり、実際にも実現可能なことです。

このように、人と社会と国家の「いのち」を守るためも、
一 数え年の復活
二 太陰太陽暦の併記併用
三 立春を元旦とする真正太陽暦(日本暦)の採用
四 西紀(基紀)の廃止と皇紀の復活
の四つについて、その公式化を実現させることが必要であり、これを暦に関する文化復興運動として提唱したいと考えます。

平成9年8月24日記す 南出喜久治
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