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靖国神社を否定する人たち ‐放火事件を契機に考える‐

千代田区の靖国神社で26日朝、神門が燃えているのが発見された。午前4時15分ごろ、靖国神社から「何者かが放火した」という110番通報があった。警察官らが駆けつけたところ、靖国神社の神門が燃えているのが見つかったが、けが人はいないという。何者かが油をまいて火をつけたとの情報もある。

英霊が祀られている靖国神社を標的にこのような卑劣な行為が行われたことに極めて強い憤りを感じる。犯人の一刻も早い逮捕と、厳罰に処されることを切望する。今回の事件は単なる愉快犯的な犯行というよりも、やはり、政治的なメッセージが込められているものと考えざるを得ない。とすると、やはり、推測の域は出ないものの、左翼過激派あるいは外国人の犯罪である可能性を疑わざるを得ない。

では、なぜ靖国神社に反対する人がいるのか。そもそも、反靖国勢力の言論、ロジックとは一体いかなるものなのか。今回の事件を期にそれを確認しておきたい。例えば、反靖国の代表的人物ともいえる東京大学の高橋哲哉教授(哲学)は著書『靖国問題』の中で以下のように述べている。(なお、今回の放火事件と高橋氏の言論とは一切関係のないものとして書かせていただいた。誤解のないように願いたい。)

高橋氏は戦没者遺族の言説を分析したうえで、靖国神社について以下のような解釈を行っている。(≪ ≫内は引用。)

≪靖国神社は大日本帝国の軍国主義の支柱であった。たしかにそうなのだが、この問題のポイントの一つは、靖国信仰がかつての日本人を「軍国主義者」にしたかどうかというレベルにおいてだけではなく、より深層において、当時の日本人の生と死そのものの意味を吸収し尽くす機能を持っていた点にあるのではないか、と私は思う。「お国のために死ぬこと」や「お天子様のために」息子や夫を捧げることを、聖なる行為と信じさせることによって、靖国信仰は当時の日本人の生と死の全体に最終的な意味づけを提供した。≫

このように、高橋氏は靖国神社が軍国主義の支柱であるとしたうえで、戦没者の死を聖なる行為と信じ込ませる機能を持っていたと解釈している。そして、これに続き、戦争で息子を失った老人の例を挙げ、この老人が当初は息子の死に嘆いていたが、招魂祭に参加して以降、その死が「名誉の戦死」に感じられ、大いに満足したという。このことから、高橋氏は靖国神社を以下のように捉えている。

≪先に、戦死者を出した遺族の感情は、ただの人間としてのかぎりでは悲しみでしかありえないだろう、と述べた。ところが、その悲しみが国家的儀式を経ることによって、一転して喜びに転化してしまうのだ。悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ。まるで錬金術によるかのうように、「遺族感情」が180度逆のものに変わってしまうのである。≫

そして、次のような結論を導きだしている。

≪遺族の不満をなだめ、家族を戦争に動員した国家に間違っても不満の矛先が向かないようにしなければならないし、何よりも、戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望することが必要なのだ。…これこそ、靖国信仰を成立させる「感情の錬金術」にほかならない。≫

これらの引用から分かるように、高橋氏は、靖国神社が戦死した兵士たちへの「悲しみ」や「悼み」によってではなく、次の戦争の準備のために、また、戦争に際しては進んで死に行く人を育てるために、戦死を美化する機能を果たす神社であると考えている。

私はこの高橋氏の言論に対して極めて強い違和感を覚える。それは、「感情の錬金術」を通して、遺族感情が「不幸から幸福」へと転じるとする部分である。いくら、英霊を祀っている神社とはいえ、人の感情がここまで一気に転化されることは常識的にあり得ない。高橋氏は遺族の言葉をいくつも分析したうえでこのような結論を導き出したのだろうが、人の心の繊細かつ微妙で複雑な有様をなんら斟酌できていない。これでは機械的な解釈にしかすぎず、言葉の裏に隠された真意に肉薄するにはほど遠い。息子を失った親が、たとえその息子が顕彰されて名誉の戦死であると称えられても、はたして幸福感に浸れるであろうか。ついぞ悲しみが消えることなどあり得ないだろう。ただ、この親は靖国神社を通じて、これまで親不孝としか思えなかった息子の死に大きな意味づけをすることができ、感情の整理がついたのであろう。靖国神社は戦没者遺族の心を幸福に転化するのではなく、強く支えるというのが私の理解だが…いかがであろうか。

また、高橋氏の発言の中にある、靖国神社は国家に「不満の矛先」が向かないよう、「戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望する」とする点にも違和感を覚える。とりわけ、「国家のために命を捧げようと希望する」ことが否定的に捉えられているのだが、この箇所には日本人として国を護るという認識が全く欠落しているように思われる。高橋氏は国家とはそもそも戦争をする暴力機関であり、その暴力を肯定するために靖国神社が存在していると言わんばかりである。もちろん、国家は戦争をする。しかし、高橋氏の国家観は本質的に国家悪玉論に他ならず、全く倒錯したものである。国家とは民族の家であり、家を護るためには次の戦争に備え準備をする必要がある。もし、このような国家の本能を否定的に捉えるのならば、高橋氏のような解釈に到達するであろう。一方、この本能を当然のものとして受け止めるのならば、その勇気と力を民族に授けてくれる場所が靖国神社であると理解できるはずだ。

私は日本の長い歴史の中で、国家のために殉じた人がいたという事実にどう向き合うのか、という態度そのものが靖国神社への理解につながると思う。もし、英霊に対する感謝の気持ちがあれば、中国や韓国がどう言おうと、この神社を肯定するであろう。つまり、現在の日本は先人の犠牲の上に存立しているという事実をどう心で感じ取るのか…。これこそが問題である。分析や理論を展開する前に人としての素直な心に従うのが大切なのではないでしょうか。

引用文献:
高橋哲哉 『靖国問題』ちくま新著

  
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