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国家と祭祀

多くの人は「日本の民主主義は欧米に比べればまだまだ不十分である。民主化をもっとすべきだ」などという。しかし、民主主義は革命国家のものであり、我が国の国体には決してなじまない。それはなぜか。

革命国家の歴史理論で国家論を語った場合、「国家」というものを「統治」の側面だけで捉えるに終始する。しかし、実はもう一つ重要な側面で捉えなければならない。それは「祭祀」という側面である。つまり、国家は「統治」と「祭祀」の2つの側面でなりたっているケースが多いのである。とりわけ、日本のような伝統国家は、氏族や部族が集合して自然に出来上がった国体の継続を肯定する「統治」的側面を有すると同時に、神話的、民族信仰による「祭祀」的側面という2つの側面で成りたっている。これに対して、革命国家は社会契約説や革命理論などの合理主義により建国されているため、祭祀的要素を捨て去ったと言ってもよい。

そして、我が国は歴史的に断絶のない真正伝統国家であるが、憲法典や成文規範では表現しきれないところに祭祀的要素が存在する。従って、帝国憲法、明治典範、教育勅語、軍人勅諭などの成分規範に祭祀的部門を記述することは極力避けられた。それは、聖なるものは不文律であるという原則に立ち、稚拙な解釈論争により俗化され、聖なる部分が損なわれることを危惧したためであった。

このように、国家は統治権能により合法性が根拠づけられる一方で、祭祀権能によりその正当性が根拠づけられる。そして、統治部門とは、財務事項のみならず、統治機構事項や国民の権利義務事項に関することである。それに対して、祭祀部門とは雛形構造になっている家族、氏族、部族、国体などの部分社会がなす民俗祭祀とその宗家である天皇祭祀がなす文化国体のことである。

民主主義は当然現在において大切な国家理念の一つである。しかし、それを強調しすぎることで、革命国家のような合理主義に至り、国家としての聖なる部分が剥がれ落ちてしまうかもしれない。だから民主主義と我が国の国体はなじまないのである。

我が国は2千年以上も祈りとともに存続している。このことに感謝と感動の心を持ち、祭祀国家に生まれたという自覚を育んでください。

南出喜久治著 『占領憲法の正體』 13頁から20頁を参照



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