スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

天皇を「犬」とする占領憲法

 日本の伝統を大切にし、御皇室を尊び、日本人であることを誇りに思うなどと、いかにも保守的なことを言う人が、実は、占領憲法は有効であり素晴らしい憲法であると思い込み、その基本理念である国民主権を金科玉条のごとく捉えているのには唖然とする。このような人は、国民主権というもが民主主義に不可欠の崇高な理念であると思っているのかもしれない。しかし、この概念は、民衆の生活を蔑にし、奢侈に溺れた国王が統治する絶対王政に対抗するための策略的概念であり、いわば絶対国民主義である。昭和天皇は御自ら国家の一部でしかないとする天皇機関説を肯定されていることからも、「朕は国家なり(L'État, c'est moi)」と言ったルイ14世などとは異なり、絶対天皇制を否定しておられる。従って、国民主権など極悪な君主の存在する西洋ならではの特産物であり、我が国には決して存在してはならないものである。この理念を有する占領憲法は直ちに破棄してしかるべきである。
 もし、この記事が目にとまり、国民主権を否定されて不愉快な思いをされたのなら、GHQの洗脳工作に汚染され続けていることを自覚していただきたい。マッカーサーが民主的な人物であるとして、洗脳状態に浸りたい人には残念ながら申し上げる言葉はない。自分が日本人であることを肯定し、その根拠を御皇室に求めるのなら、国民主権こそが最大の敵であると知っておかなければ恥ずかしい限りである。以下、その理由を南出先生の文章から引用させていただいた。

≪臣民か、国民か、を分ける指標は、「国民主権」です。「国民」という言葉は、広い意味では「臣民」を含みますが、ここでは、もっと狭い意味で、国民主権を支持しそのことを自覚する人々のことを「国民」と呼んで、以下の話をすすめます。
国民主権を認めるのが「国民」であるのに対し、「臣民」というのは、国民主権や天皇主権など、そもそも主権という概念それ自体を全否定する臣民家族のことです。臣民は、祭祀の世界にあっては、天皇家が臣民家族の祖先の宗家と認識し、すめらみこと(総命)である祭主を崇め、天皇祭祀の雛形である祖先祭祀を守ります。そして、統治の世界にあっては、「天皇と雖も國體の下にある」とし、ましてや臣民においては尚更のことであるとして、暴力的な概念である主権を排し、国家は規範國體に従うものと自覚するのです。
国民の立場からすると、国民主権を肯定し国民が主人となりますから、天皇が家来になります。天皇は、ご主人である国民が定めた占領典範(皇室弾圧法)に家来として従わざるをえない立場です。この論理は誰も否定できません。そして、国民主権を認めているのが占領憲法ですから、国民主権を認めるということは、占領憲法を憲法として有効であると認めることです。これも単純な論理であり、決して感情論ではありません。しかし、天皇を家来とするような不敬不忠の者は「非国民」というのであって、その非国民をここでは「国民」と呼んで「臣民」と区別して論述するのは、定義の仕方自体が理不尽だと思われるでしょうが、あくまでもここでの仮の呼称だと割り切って我慢して読み進めてください。

ところで、国民の立場に立つ人の中にも、天皇を尊ぶ人が居ます。それが単なるポーズなのかどこまでが本心なのかは不明ですが、いずれにしても胡散臭い人達です。その人達は、天皇は占領憲法においても「元首」だから、天皇やご皇室を蔑ろにすることはあり得ないなどと戯言を吐き、天皇が家来であるとする論理的帰結に感情的に反発するそぶりを見せるのです。しかし、このような人の思考回路と精神は完全に狂っいます。統合失調症よりも重度の患者ですから、一日も早く完治されることを願うばかりです。
国民主権の占領憲法によると、天皇が「元首」であるはずがありません。国民が主人で天皇が家来なのに、どうして家来の天皇が国家の首長であり統治者である「元首」になるのですか?
天皇は「象徴」だから「元首」なのだ、というのは、まさに重篤な病による論理破綻の結果です。象徴というものは、元首とは全く無縁のものです。
物言わぬ存在を他の概念に例えるために用いるのが「象徴」です。物言わぬ存在とは、普通は、無機物とか動物などが多いのですが、天皇を象徴にするということは、物を言わせない存在として天皇を押し込めるという意味です。そして、天皇の地位は「主権の存する国民の総意に基づく」ことによって国民の家来となるのですから、当然に国政に関する権能もなく、すべては内閣の助言と承認に基づく傀儡になるのです。元首とは全く程遠い存在です。
『入江相政日記』によると、昭和四十八年、当時の防衛庁長官増原恵吉は、内奏に関して、昭和天皇が「防衛の問題は難しいが、国を守ることは大切だ。旧軍の悪いところは見習わないで、いいところを取り入れてしっかりやってほしい。」とのお言葉を賜ったとマスメディアに漏らしたことから、「天皇の言葉を引き合いに、防衛力増強を合理化しようとしている。」との批判を浴びて更迭されたことがありました。昭和天皇は、この事件を受けて「もうハリボテにでもならなければ」とご嘆息されたとのことです。この事件は、「ハリボテ天皇」、「傀儡天皇」とするのが占領憲法が命ずるものであることを示しています。
このような存在は、いうならば「ペット(愛玩動物)」と同じです。家族で犬を飼って、その犬を家族同然に可愛がっている姿をよく見かけます。犬の野生的本能からして、決して喜んではいないのに、ご主人様の自己満足で、犬に服を着せたり靴を履かせたり、美容院に連れて行ったりして、可愛い、綺麗だ、と言って無邪気に喜んで居ます。犬に分不相応な名前を付け、家族全員と生活を共にして家族のマスコットとなり、その仕草に癒されるというのです。
このような現象を人と動物との共生などと美辞麗句でもてはやし、微笑ましい姿だという人も居ますが、結局はペット産業に躍らさせ、その微笑ましいとされる現象の裏面には、動物の大量遺棄、虐待、疫病なとの蔓延、野生化による被害拡大など様々な多くの問題が起こっています。ですから、このような過度なペットの家族一体化現象はおぞましいものがあります。どうしておぞましいのかというと、それは、この延長線上に象徴天皇制、傀儡天皇制の本質が見えてくるからです。
ご皇室をペットと同列に論ずるのは、国民主権を信奉する者の考えを論理的に展開した必然的な結果であって、私の本意とするところではありません。まことに心苦しい限りですが、国民主権を支持し、占領憲法を憲法であると認める「国民」の立場を貫けば、こんな結果になってしまうことを知ってもらうために、あえてこの話を続けます。
国民主権を支持する人、つまり、占領憲法を憲法として有効であるとする国民の立場に立つ人にとって、天皇を象徴とするというのは、いわば「趣味」の問題であり、本質論ではありません。天皇という家来を持ち続けるか、あるいは、そんな家来はもう飽きたので要らないとするかは、国民主権によって自由に決められることであり、国民主権の憲法では、象徴天皇制を廃止しても何ら問題はないからです。そもそも占領憲法は、天皇というアクセサリーを付けた「共和制憲法」だからです。
象徴天皇制(傀儡天皇制、ハリボテ天皇制)というのは、いわば、家族でペットを飼うか否かは、家族のあり方の本質とは関係がないし、家族で自由に決めることと同じ構造なのです。
ペットの嫌いな人、ペットのアレルギーを持っている人、ペットが好きで好きでたまらない人、ペットは好きでも世話するのが苦手な人など様々な人が居ます。屋内で飼うことを好む人も居ますし、それを嫌う人も居ます。屋内で飼うのを嫌うならば、自宅の庭に犬小屋を作って、そこに鎖でつなぎ止めて餌を与え人の住まいから隔離することもあります。そして、鎖やヒモを付けたまま散歩します。
国民の立場であれば、国民と天皇の関係は、家族とペットの関係と同じですから、家族で犬を庭の犬小屋で飼うのと同じやうに、皇居や東宮御所、赤坂御用地内の秋篠宮邸などは、さながら「犬小屋」と同じ意味になります。行幸や行啓は、犬の散歩と同じです。 「皇居を犬小屋と同じとは何事か!」、「行幸を犬の散歩と同じというのは不敬の極みである!」と怒ってみたところで、それは天に唾する憤りに過ぎません。国民の立場であれば、そうなるのです。
犬小屋ではなく、それは、せめて豪華な犬屋敷(犬御殿)と訂正する程度のことはできますし、散歩を「お散歩」と丁寧に言うことはできます。しかし、犬を「お犬様」と言い直しても犬は所詮犬です。徳川綱吉の時代における生類憐れみ令のように、占領典範を「天皇憐れみの令」と読み替えて運用する程度のことです。
つまり、占領憲法を憲法として国民主権を支持する「国民」とは、これほどまでに不敬不遜な「非国民」に堕落することを意味することを肝に銘じなければなりません。≫

南出喜久治著 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 第三十二回 臣民と国民

関連動画 金沢セミナー「帝国憲法現存確認のために
  
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。