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おさなここち-こぶとりじいさんのお話から-

うけひのもり学園で毎月発行しています、子供向けのお話ですが、大人の私も読んでいて考えさせられるお話ばかりです。おさなここち転載いたします。

「こぶとりじいさん」の話を知っていますか。 よく冗談で言われる事ですが、「こぶとり」といっても、少し太ったおじいさん(こぶとりじいさん)の話ではありません。これは、平安後期の今昔物語集、鎌倉初期の宇治拾遺物語という昔の書物にもその原型が見られる おとぎ話で、世界にも同じような話やこれに良く似た話もあります。これと良く似た話や少し変わった話などが多くありますが、念のために私なりに標準的な話として要約して説明しますと、次のような話です。
 
昔々ある所に、右ほほに大きな重いこぶがある爺さん右こぶさんと、左ほほに大きな重いこぶのある爺さん左こぶさんが隣同士で住んでいました。二人ともそのこぶがあることに 不便を感じていましたが、右こぶ爺さんは正直で無口な人で、邪魔なはずのこぶにもたいそう愛着を感じていましたが、左こぶ爺さんは、意地悪で欲張りな人で、こぶがあることが嫌で嫌で仕方がありませんでした。ある日、右こぶさんが山に仕事に行くと、突然雨が降ってきたので、近くにあったお堂に入って雨宿りをした所、ついついお堂の中で眠ってしまいました。目が覚めると、あたりは真っ暗になっていて、お堂の近くに鬼が集まって楽しそうに歌って踊って酒盛りの宴会をしています。右こぶじいさんはその楽しい雰囲気に自分も楽しくなり、鬼の怖さも忘れて踊りながら鬼たちの宴会に加わってしまいます。鬼達は驚きましたが、右こぶさんの踊りがたいそう上手で楽しいので鬼達も感心して右こぶさんに酒やごごちそうをすすめてみんなで楽しく過ごします。宴会が終わると、鬼達が 次の晩にも踊りを見せてくれるように右こぶじいさんに命じ、明日、くればこのこぶを返してやるといって、右こぶを一気にひっぱって傷も痛みもなく取ってしまいました。右こぶじいさんが山から家に帰って来て、奥さんのおばあさんにその一部始終を話ました所、その話を盗み聞きした隣の左こぶさんが、自分もこぶを取ってもらおうと考え、次の日の 夜更けに同じ所に出かけました。すると、やっぱり鬼達の宴会が始まりました。ところが、左こぶじいさんも同じように踊って見せたものの、鬼が怖くておどおどするために、上手く踊りが出来ず鬼達はそれが気に入りません。
しかも、こぶを取ってくれとせがむので、とうとう鬼達は怒って、右こぶじいさんから取り上げたこぶを左こぶじいさんの右ほほに押しつけてくっつけました。このようにして、右こぶじいさんはこぶが無くなりすっきりしましたが、左こぶじいさんは両ほほに重いこぶをぶらさげることになって苦労することになりました、とさ。

 まあ、ざっとこんな話です。これに更にえはだが付いたり、少し違った事情などが加えられたり、削られたり、別の物に変えられたりするものも数多くあります。
しかし、色々な変形はありますが、大筋ではこの通りの話です。
 この話にはこぶが話題に出てきます。このようなこぶはガンのような悪性の物ではなく、いわゆる良性の物です。外科手術や整形手術の無い時代の話ですから、悪性の物も良性の物も、それを取り除く秘術などがあったことが語り継がれて来たという歴史的な背景があるようです。強さと優しさとは表裏の関係にありますから一般には人々に害をなすような強い力を持つ怖い鬼であれば、痛みや出血もなくこぶを取るような人のためになる秘術の力も持っているとして、鬼も人間と同じように宴会を楽しむ愉快でおどけた側面がある事を描いています。
 しかし、この話には必ずしもあまり深い意味もなく、明確で道徳的な教訓がある話では無いと言われてきました。それどころか、多くの矛盾や疑問が指摘されています。まず、「舌切り雀」についても同じ事が言われますが、「こぶとりじいさん」ではなく「こぶとられじいさん」とすべきではないかと言うことです。そして、鬼はこぶが右こぶじいさんにとって大事な物であると思って、それを次のの晩にも来てもらうために片地に取る(質草にする)事にしたのですから、もし、右こぶじいさんが本心からこぶに強い愛着があると言うのであれば、それを約束通り次の晩に取り返しにに行かなかったのはなぜなのですか。
鬼が左こぶじいさんと右こぶじいさんとを見誤ったはずはないのに、右こぶじいさんの こぶをどうして右こぶじいさんが来た時まで預かって置かなかったのですか。等々いろんなことが言われてきました。 太宰治という作家も、「御伽草子」という作品の中で「こぶとり」を取り上げ、独特のユーモアで 「こぶとり」話をからかっています。
 では、私たちは、このこぶ取り話をどのように受け止めたら良いのでしょうか。これまで疑問が出されてきたように、例え、へそまがりとか、理屈っぽいと思われても考えて見る必要はあります。当たり前の事や理解できない事を、何故だろう、どうしてそうなるのだろう、と考える事は大切です。エジソンが小学校の先生を質問攻めにする為に小学校に行けなくなったとする逸話や、そのような性格であったために、遂には発明王と呼ばれる人になったのも、誰もが疑わない当たり前と思われた事にも疑問をもち、自分が納得するまで追求し、その素朴な疑問を大事にした為です。

 しかし、だからといって、昔から伝わっている話を今の知識だけで判断して、迷信だ、非科学的だ、などと即断して否定したりすることはできません。それこそ非科学的な態度なのです。 真理を伝える場合、たとえ話をすることが多いのです。むしろ、例え話でなければ真理が伝えられない事もあるのです。
古くから長く語り継がれて来た事には、何らかの意味があるのです。話の形式や内容に拘ることなく、話の持っている雰囲気を受け止め、その話に託された深い意味を感じ取る事が大切です。

 この話の原作的な話が宇治拾遺物語にありますが、そこには、「物羨みは せまじき事」(恨んだり妬んだりしない事)の教えとして受け止められています。他にも、正直で欲の無い者が得をして、いじわるで欲張りな者が損をするという事で話が組み立てられているとする考えも語られています。 また、こんな考えもあります。右こぶと左こぶと言うのは、右脳と左脳の例えであるとするものです。優れた人になるには、図形や空間構成などの認識、音楽感覚、直感力などの働きをする「右脳」と、言語や文字、計算などの情報認識、論理的な判断力などの働きをする「左脳」とのバランスが大切であり、左脳偏重では 不幸になることを昔の人は知っていたと思われます。

右脳と左脳とのバランスは「本能」と「理性」、「家族」と「個人」、「祭祀」と「宗教」のバランスとも共通します。これは、この話についての私の受け止め方ですが、皆さんもこの話を題材に色々と考えてみてください。

平成22年12月21日記す
南出喜久治
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