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真正護憲論 「講和条約説」④

 占領憲法を講和条約に転換させるということは、本来無効であるにもかかわらずまかり通っていた、このいわゆる「憲法」を今後どう扱うのかという「評価の問題」である。従って、その際、占領憲法がどのように成立したのかが評価を決定する上で問題となる。そして、占領憲法の成立過程には実質的に講和条約の締結を彷彿とさせる点が多数ある。その具体例を以下にまとめた。
 
 占領憲法の成立過程に深く関与した吉田茂は回想録の中で、占領憲法が講和条約である旨の発言をしている。吉田は「・・・改正草案が出来るまでの過程をみると、わが方にとっては、実際上、外国との条約締結の交渉と相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層”渉外的”ですらあったともいえよう。ところで、この交渉における双方の立場であるが、一言でいうならば、日本政府の方は、言わば消極的であり、漸進主義であったのに対し、総司令部の方は、積極的であり、拔本的急進的であったわけだ」(吉田茂『回想十年』第二卷)と述べている。ここで吉田が用いた「渉外的」という言葉は、「ある法的事項が国内だけでなく、国外にも関係すること」を意味する。つまり、この回想録から、吉田は占領憲法の制定過程が対外的な条約であるとの認識を持っていたことになる。これも占領憲法が実質的には講和条約であることを裏付ける一要因となる。ちなみに、吉田はGHQをGo Home Quicklyの略語と揶揄する人もいることを示唆し、憲法を講和の条件として早く制定したいと言った。これにより、枢密院は講和独立の動機と目的のため改正案を諮詢した。講和条約としての承認の実態を得たと言えよう。
 
 占領憲法が講和条約であるためには相手国との交渉の出先機関が必要となるが、やはりこれも存在した。「終戦連絡事務局」である。これは占領憲法の制定、施行とはまったく無関係に終戦直後の昭和20年8月19日に設立され、独立にいたるまで一貫した講和交渉の窓口となった。このことから、この事務局は、占領憲法を一連の非独立の入り口(ポツダム宣言・降伏文書の受諾)から出口(サンフランシスコ講和条約、旧・新安保条約)の間の中間条約として位置付ける根拠にもなる。

 また、吉田の述べた成立過程のみならず、占領憲法の形式手続が実質的には条約の手続きに酷似していることも挙げられる。まず、GHQは我が国に「マッカーサー・ノート」に基づいて作成された『GHQ草案』を手交して、これによる憲法改正を指示した。その後、詳細な指示と交渉が幾度かなされ、帝国議会の審議等の国内の形式手続を経て占領憲法となった。この過程における、GHQ草案の手交は「講和条約」の「申込文書」であり、「占領憲法」の制定は「承諾文書」であると評価できる。「契約」とは申込と承諾だけによって成立できることから、合意文書は必要ない。従って、合意文書は存在しなくてもこの形式手続があることで、占領憲法は「講和条約」の要件に合致する。
 
 あと、講和条約の特徴とも言える「英文官報」が存在することは重要である。つまり、英文で書かれた占領憲法は任意的な翻訳なのではなく、「英文占領憲法」として規範的効力を有している。このことからも占領憲法が単なる国内系の単独行為ではなく、相手国との間に交わされた契約であることを意味する。どこの国が自国の憲法を規範的効力を有したままで外国語で書くであろうか。これは憲法の性質ではなく、本質的には対外的な講和条約に他ならない明らかな証拠だ。
 
 これらのことから、占領憲法が実質的には何であったのかがよく分かると思う。しばしば、「憲法は憲法であり、条約は条約である。それ以外にはならない」という論を展開する人がネットユーザーの中にもおられるが、それは名称に騙されているだけである。物事には表層と実体がある。表層はいくらでも好き勝手に繕うことができるが実体はそうはいかない。この「講和条約説」により、占領憲法の実体が何であったのかを垣間見た気がする。 
 
 以上「講和条約説」の根拠を並べたが、実はそれはまだ存在する。次回述べさせていただく予定だ。

 南出喜久治著 『占領憲法の正體』158頁から163頁参照。
  
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