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供へ物と手向け物

人は、霊主体従です。霊(たましひ)が主たるもの(本質)で、体(肉体)が従たるもの(現象)です。肉体が滅んでも霊(たましひ)は不滅です。「死」という現象は肉体が滅ぶことであって、霊(たましひ)は、祖霊の末席に加わり、そこを経て総命(すめらみこと)に帰って生き続けますので滅びません。体は死んでも、霊(たましひ)は生き続けるのです。
たましひ(たましい)の「たま」とは、「玉」であり、「偶」であり、「奇」です。完全なもの、美しいもの、まれなもの、貴いものです。だから「偶し霊」です。「たま」は、「霊」をも意味しますから、「たましひ」とは、「たま」と「ひ」の重ね言葉でもあります。霊(ひ)とは、「日」の化身であり、永遠なものです。ですから、我が国は「日の本」であり、日の国、霊の国なのです。
 また、「人(ひと)」とは、「霊止(ひと)」のことです。一から十までを大和言葉では「ひふみよいむなやこと」と言いますが、この初め(ひ)から終はり(と)までのすべての数霊の性質を持つて生まれたのが人(ひと)です。「たましひ」は永遠ですが、そのたましいが、仮の住まいとして肉体に止まったものが「霊止」というのです。
占領仮名遣いだと、「たましい」と表記されて、「たましひ」の言霊の響きが隠されてしまいます。ですから、これだけでも「たましひ」と言ってみてください。

(中略)

人の善悪は、宗教的に定まるものではありません。命と本能に忠実な方向が善であり、それに背くものが悪なのです。宗教的や道徳的なもので善悪は決まりません。本能に適合する方向、つまり「本能適合性」がある方向が善であり、それに反するのが悪であるという単純なことなのです。ですから、御先祖様に感謝のための祭祀もせず、お供えもしないというのは「悪行」なのです。
そもそも、御先祖様の祭祀のために行うお供へというのは、感謝の表現の一つです。何かをお願いするためのものではありません。日々の祭祀に、いつもお供へできるのは簡素なものでもやむを得ませんが、珍しいものや初ものなどが手に入ったときは、それもお供へをします。
そのお供への中で、手向け物が最も重要なものです。手向けとは、家族の手で丹誠込めて作ったものを、その両手に抱いて御先祖様に献上することです。手向け物とは、あくまでも自分の家族が作ったものです。どんな不出来なものであっても、丹誠込めた子孫の営みを慈しまれるのが祖霊です。人様には恥ずかしくて差し上げられない不出来なものでも、御先祖様なら喜んで受け止めていただけるはずです。
私の家のことについて述べますと、私の亡父の命日は、太陽暦では十一月一日です。亡父の好物は果物ではイチジクでした。随分昔に、妻は、家でイチジクを作ると言ってその苗を買ってきて育ててくれました。ようやくイチジクの実ができたのですが、季節が異なりますから命日まで持ちません。そこで、夫婦で相談し、冷凍保存して命日に手向けるというのも何だかおぞましいので、今では採れた初物を手向けるようにしています。
このように、自分の家族で作った物がいつも豊富にあるとは限りません。それが少なくて貧相であることから、自分の家族以外の人が作った物も添へて、すべてのお供へ物を自分の家族で作ったもだけで満たすことができないことをお詫びしてお供へするのです。手向け物やお供へ物は、食べ物だけではありません。家族が作った歌や書や絵、工芸品などの品物などもそうです。ところが、いつも祭祀を心がけている人でさえ、現在では、家族では全く作らずに、人が作ったものや買ってきたもので豪華なお供へをすれば足りるとする唯物的観念に毒された人が多くなりました。
古代は、自給自足社会でしたから、お供へ物のすべては手向け物でした。そして、ときには、家族以外の人が作った物をいただいたとき、その中には、珍しく有用で貴重な物として重宝される物がありましたから、それをもお供へ物とすることがありました。ところが、今では家族自体の自給率が低下し、お供へ物に対する価値観が逆転してきています。家族が自給自作していない物が如何に豪華な物であっても、それだけしかお供えできないのは、家族の自給率のなさを晒すようなものです。
祖霊が喜ばれるのは、子孫の「力」です。自らの家族が必要とするものを自らの家族が作る能力を高めることが家族の真の力であり、このことは貨幣経済の物差しで計ることはできません。祭祀を受け継ぐ子孫の力とは、自立再生の家族となって「まほらまと」を実現することにあり、それによって皇運を扶翼することを祖霊は望まれるのです。
たとえば、食べ物をお供へする場合でも、買ってきた出来合いのものをお供えするよりは、少しでも自分の家族で素材から作ったものにすることです。できれば、その素材も買ってきたものよりも自分で作ったものにすることです。そのことを常日頃から心がけることによって、各家庭の自給率が高まり、ひいては国家の自給率が高まって、一歩ずつ「まほらまと」に近づく救国の道を進むことになります。
祭祀は救国の実践であり、救国の力である所以がここにあります。


青少年のための連載講座【祭祀の道】編
第三回:供へ物と手向け物
平成二十二年一月七日(昭和天皇祭)記す 南出喜久治
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