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祭祀は宗教ではないのです、宗教とは傲慢なもの-蜘蛛の糸、芥川龍之介より-

昨年冬の國體護持塾 塾生みすまる での 南出喜久治先生のお話をUPしています。
今日は昨日に引き継づいて、宗教というものの傲慢さのお話です。

蜘蛛の糸、芥川龍之介の短編小説は仏教説話かどうかとかなんかを議論の中で考えた。主人公が、結局蜘蛛を助けた、蜘蛛を殺さなかったというか。それでお釈迦さんがそれを見て。蜘蛛の糸を垂らして、それに縋って上がってったんやけど、他の盗賊どもみたいなやつがいっぱい上がってきたもんやから、「こら、上ってくんな」言うたら何かプツっと切れたいうのね。そのプツっと切れたのも、罰があたったみたいな言い方が書いてあったんかな。それで浅はかやという風に書いてあったんやね。それは芥川の一つの思想なんだけど、そもそも、宗教っていうのは…蜘蛛の糸なんだよ。キリスト教なんか特になんだよね。縋ってくるんだけど、蜘蛛の糸をそのまま切るのか切らないのかは、あくまでも神のみぞ知る浄土真宗の教えだと、信じる者は救われるやね。法然は念仏為本。念仏をもって基となすというのが根本やった。念仏が根本やということで、一生懸命念仏を唱えた。そうしたら、極楽往生いう教えね。親鸞の場合は、本来は念仏ちゅうのは、あの仏を念ずるんだけど、別に念仏を唱えるよりも阿弥陀如来、阿弥陀の本願によって救われるということ。要は信心さえあれば救われる。だから口に出す必要無いわけ。称名念仏に拘ったのは法然で、称名に拘らなかったのは親鸞だよね。で、どこが違うねんって、教えが救われるか救われないかです。つまり、声の出さない障害者は救われるか救われないかの端的な違いだけ。健常者の特権、傲慢さが念仏宗です。
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