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祭祀は宗教ではない、尊皇思想が自然と生まれるものなのです

引き続き、昨年冬の國體護持塾 塾生みすまる での 南出喜久治先生のお話をUPいたします。
本日は、ご先祖を一番大切にする、その尊さと宗教(日本の仏教)のお話です。

家族を意識したものは宗教には無い。仏教も然りです。いかにも家族を大事にしてると思うのは、江戸時代の檀信徒制度、五人組の制度でそれは監視機構なの。江戸幕府のキリシタン弾圧の為の監視機構として五人組制度とか檀家制度ができたんであって、それは家単位でやったほうが家族単位でやったほうがまとまりやすいだけの話、監視し易いからであって家族を大事に、ご先祖を大事にするところから檀家制度があったわけやないわけね。そうなってくると一個人でしょ。僕も教えを捨てたけど浄土真宗の教えなんて救済の思想で、仏教じゃないでしょ。仏教じゃないものは捨てただけで、親鸞は父母の孝養の為に念仏申さじき候って言うて歎異抄で言っている。日本礼儀集っていう仏教説話集の中には親孝行せえへんのやったら地獄に落ちるって書いてあるわけ。法然、親鸞くらい300年ぐらいたつと、今度は父母の孝養の為に念仏申さじき候て、親はどうでもええって言っているわけ。逆に神祇不拝って他の神様を一切拝むな。もちろん宗教、神社も含めて。一切神は拝むなって言っている。教行信証では国王不礼、天皇はいらないって。天皇否定、要するに一切の祭祀否定、これが親鸞の教えだから僕は捨てたんで。阿弥陀如来と天皇とどちらが大事かって阿弥陀如来が大事や言うんやね。そしたら阿弥陀を取るか天皇をとるかどうすんねんて言った時、元々天皇を取るなって言ってるんやから、国王不礼、つまり天皇を捨てろって言ってんだから。そのことを明記してるのを今の真宗教団ははっきり発表しない。いかにも皇室と縁を結んで、葬式仏教、そもそも営業的な宗教やから。釈迦の仏教教団とは全然意味が違う。戒律を捨ててるいうようなのは仏教とは言わない。今も例えば日本仏教会なんかが、例えばミャンマーやタイへ行っても、日本の僧侶は僧侶として認めてくれない。戒律を破って肉食・妻帯・蓄髪をやってるから。それは明治5年に、太政大臣布告が出て、肉食・妻帯・蓄髪は勝手たるべしっちゅうものが出た。それによって法律よりも仏法のほうが大事なのに、それを捨ててしまったわけでしょ。勝手たるべし、好きにしなさいって言うてんねんやから。捨てなさいという命令ではない自由選択を認めてるわけでしょ。そしたら仏法を選んで、戒律を守ればええねん。これ幸いと肉食妻帯蓄髪をしてるわけでしょ。
祭祀でずっとご先祖遡って行けば、皇祖皇宗、八百万の神々に行くというような、確信があるならば、尊皇思想は自然に出てくるのだけど、特定の宗教観から尊皇思想なんて絶対出てこないですよ。それは単なる宗教的アクセサリー、つまり尊皇風味で議論しているわけ。占領憲法という國體破壊の憲法を守って國體を守ろうとしている。宗教という天皇。今の宗教は全て天皇否定です。究極の選択は天皇否定で、天皇を取るか、絶対神を取るか御本尊を取るかと言った時に天皇否定、宗教によって天皇なり國體を護持できない。
この占領憲法という國體破壊の憲法を守って國體を護持できない。これは雛型構造と同じ構造や。宗教の問題と、これは憲法の問題とは全く一緒なんですよ。皆さんそれぞれの宗教を持ってはると思う。だけど突き詰めてごらんなさい、嘘八百年の真宗教団。僕は真宗教団の理屈を全部知った上で議論してるんで、僕は憲法論の前にもう宗教論のほうの専門家や。宗教論やったらいくらでも、シンポジウムでも出てって、いろんなことの中でやってける自信はある。憲法は、どっちかっていうと趣味的にやって、宗教と祭祀という形の中で長い歴史、嘘八百年の真宗教団の歴史を暴くことでその教えを捨てるということは清水の舞台から飛び降りたような話なんやけれど、占領憲法が無効やいうことぐらいはどうでもええんです。
どうせ、論理においては破綻してるから宗教のほうが大変です。
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