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教育勅語と本能論 -國體護持塾 塾生みすまるより-

昨年冬、國體護持塾 塾生みすまる での 南出喜久治先生のお話を 続きでUPしてまいります。本日は第1回目。真正護憲論に繋がるお話、教育勅語についてです。

そもそも、僕の無効論もそうなんですけど、祭祀とか國體とかいうことを痛感するようになったとのは生まれたときからではなくて。物心ついた時はいうのはむしろ私の父親の教えもありました。ずっと教育勅語を暗唱して僕は風呂屋の子だったのでよく風呂に浸かる時子供に、一から百まで勘定させて、それでしっかりお湯に浸かるということをさせるんですけど、うちの父親は風呂に浸かって教育勅語をとりあえず暗唱させるんですよね。間違ったら、「もとい」もういっぺんやらせる。で普通に言うとほぼ一分かかります。要するに一分間お湯に浸ってることの為に一から百まで勘定する、数を子供に教えたところで全然意味が無いわけ。もう憶えたらそれっきりなんでね。それよりも、教育勅語は、何回暗唱しても、日々あらたに感動する部分、例えば言葉の軸の中に見つけることができるのね。
寝言でも教育勅語を言えるぐらいのところまで仕込まれて。
それだけ、それ以外に別に、戦争のことを語るわけでもなく、ある意味ですごい軍歴を持った父親なんだけど、それを自慢することもなく卑下することもなく、とりあえず子供に教育勅語を暗唱させる。僕は、これがうちの父親の教育論やったと。あれこれ、何せえって言うよりも、子供が教育勅語を暗唱してしまうと身に付いてくるっいろんな徳目があることをいちいち解説的に説くのではなくて、それを暗唱することによって、体に染み付いてくる。下手に、親孝行だとか、兄弟仲良しくしないさいとかいろんなこと言わなくても、染み付いてくる。

それがやはり論理の世界と直感の世界の両建てをする必要がある。論理の世界というのは確かにああなればこうなるっていう論理学、理性も含めた感覚なんだけど、直感の世界というのは、百ぺん読むとおのずと通ずる部分が直感の世界でね。直感の世界を鍛えてやるのが教育かなと。
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